少し走っただけで、息が切れる。
脂っこいものを食べすぎると、胃がもたれる。
一昨日の夕食メニューが思い出せない。
こういうときに、感慨に浸りながら(?)年をとったんだなぁ、と思う人も多いようだが、幸か不幸か自分はいまのところそういった事は全くない。
勉強は結構好きだし、自他共に認める「アーリーアダプター」なので、気持ちだけは若いつもりでいるが、健康面は特段気にかけているわけではない。
(職業柄、ステージに上ることも多々あるので、体型だけは気にかけている)
にもかかわらず幸か不幸かあまり上記したようなことは感じない。
しかし、外部情報に触れたときに、否が応でも年をとったと感じることが増えてきたのは事実だ。
年をとったと思うとき
先日、自分の馴染みの店が移転するため、現在の店を今年で一旦閉じるという情報を得た。
移転の理由は、店の老朽化が一番の理由だということだ。
その店がその場所で営業を始めたのは1999年。
つまり、17年その場所で営業し、老朽化、移転に至ったということになる。
中学や高校の頃、「昔からある店」は、営業開始が自分の生まれるより、はるか以前ということばかりだった。
しかし、 1999年といえば、もう立派な(???)大人になっている年齢だ。
つまり、自分が大人になってから今日までの月日の長さは、ある店が営業開始してから老朽化するまでの時間に等しいということだ。
他にもある。
ドキュメンタリー番組などで紹介されるある職業の人が「ベテラン」と呼ばれていて、年齢を見ると自分より若いと知った時。
テレビで「当時の映像」といって流される映像がとても古臭く、画質も音質も悪い。
出てくる人たちの髪型やファッションが古臭い。
そんな時代もあったのだなぁ、と思っていると、「当時」は自分が生まれたよりもずっと後だったと知った時。
懐メロで紹介されている曲が、自分がリアルタイムでCDを買った曲だった時。
同窓会には殆どいかないが、たまに同窓生に会うと、あまりに肥っていて気づかないレベルだった時。
至極当たり前のこと、自分も年をとったのだ。
年をとることをネガティブに捉える必要はない
人生を山に例えて、体力や寿命から計算した結果、自分の現年齢を「下山中」とみなす人も多いようだ。
しかし、人は成長が終わったあと下山するのではく、成熟するという選択肢もある。
自分の年齢は、あらゆる方面から考えて成長期を終えている。
今後の人生を「下山」とみるのか「成熟」とみるのかで、大きく変わるだろう。
人の死亡率は100%だ。
そこだけは決まっているが、そこ以外は何も決まっていない。
そして、恵まれていることに、まだ思い立ったら結構いろんな事ができる状態にある。
成熟期だと考えて、思いっきり成熟期を楽しみたい。
不老不死は、物語の世界か、超最先端の研究者だけで十分だ。
自分も含めた、いわゆる「庶民」は、素直に年齢を受け入れ、成熟を楽しむ方に気持ちを切り替えた方が、よりよい人生を歩めるのではないだろうか。