随分まえのこと、自分はJAZZ喫茶で働いていた。
オーナーは別の店も経営していてそちらにつきっきりだったので、JAZZ喫茶の方はすべて自分が管理していた。
開店から閉店、その日の売上帳の記入もしたし、月の売上報告もやった。
不定休で、休みというのはつまり自分に用事があって出勤で出来ない日のことだ。
店長という肩書になるのだろうが、なにせ自分しかいないので、その肩書にはなんの意味もなかったし、必要もなかった。
そこは、音楽喫茶でもJAZZカフェでもなく、JAZZ喫茶という呼び名がぴったりの店だった。
古風ではなく、本当に古い。
喫茶なので、たばことコーヒー。それ以上も以下もなかった。
生演奏もなく、それをこれでもかといわんばかりの膨大なレコードコレクションが埋め合わせていた。
自分のまえの担当者から自分が店を引き継ぐときに、最初に教えられたのがその客のことだった。
普通は業務的なことを一通り教えるだろう。
何時に来て、こういう仕込みをして、伝票はこう書いて、コーヒーはこうやって淹れて、といった具合だ。
しかし、この店は違う。まずはその客のことだ。
その客は、開店とほぼ同時に入ってくる。
いらっしゃいませと言うが、反応という反応はない。
座る席は、必ず入り口から最も近いテーブルだ。
同じテーブルの同じ座席に、同じ格好で座る。
その客の場合は、注文はなくとも来店と同時にコーヒーを淹れ、提供すれば良い、そう教わった。
JAZZ喫茶なので、BGMより一回り大きな音でJAZZが店内に流れているが、その客は曲に合わせて微かに体を揺らす。ほんの微かだ。
約30分経つと、何も言わずに店を出ていき、飲み終わったコーヒーカップを下げにいくと、そのカップの横にコーヒー代が置いてある。
謎おおい客とはまさしくこういう客のことをいうのだろう。
寡黙な客なので、素性がまるでわからない。
名前は、前の担当者や他の常連客(もちろん常連客は皆彼の存在を知っている)が呼んでいる名前があったものの、その名前が果たして本当の名前なのかどうかはだれもわからない。本人に直接聞いた人なんていないのだ。
住んでいるところも年齢もわからない。
結婚して子どもがいてもおかしくない年齢ではあるが、その辺も謎だ。
そして、もっとも特徴的なのは、その客がその店に来なかった日は、一日たりともないのだ。
実は、前の担当者からの引き継ぎで特に気をつけてほしいこととして、あの客がもしこないことがあったら、必ずそのことをオーナーに報告してほしい、というものがあった。
この引き継ぎ事項も、その店が開店以来ずっとつづいていることらしく、たどっていくとその客は、なんとその店が開店して3日目から来店し続けているのだ。
にも関わらず、その実態は誰も知らない。
数年間働いたその店を自分が去ることになり、次の担当者にも自分がされたのと同じように引き継ぎをした。
もちろん、引き継ぎの最初の項目は、その客のことだ。
その店をやめて数年後、街でばったりその客と出くわしたことがある。
お互いに目が合ったが、特に話すことはなかった。
無愛想だとか、気まずいとかいうのではない。
話すことが純粋になかっただけだ。
◆
時代の波におされて、その店は閉店してしまった。
その客は今どこにいるのだろう。
もちろん誰も知らない。