日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです。 趣味は読書とビリヤード。仕事は音楽関係。

いじめありきで考える

子どもを持つ親という立場になると、こういうニュースを聞く度に胸が苦しくなる。

いじめをゼロにするのはほとんど無理だ。

こういうことを書くと反論されそうだが、そもそもいじめとはなんなのか、ということを考えてみる。

少なくとも人間だってヒトという動物だ。他の動物と同じ部分も多い。

ヒト以外の動物のうち、肉食系は自分達が生きていくために狩りをする。

これを悪いことと捉える人は少なく、自然界の摂理だと言い放つ。

ヒトと他の動物の差異で最も大きいものの一つが理性だ。

上述した肉食動物の狩りと同じことをヒトがしても、摂理だと言い切れる人はほとんどいない。

しかし、理性は本能を覆い隠している部分であって、取って代わっている部分ではない。

つまり、闘争本能、生存競争意識は多かれ少なかれヒトの中にも存在している。

これを考えると、いじめがゼロになるわけがないという気がしてくる。

理性と本能のバランスなんてかなりの個人差がある。全員が全員、本能を理性で抑制できるほどヒトの脳はうまくできていない。

いじめによる自殺事件が起きると、いじめの実態を学校や親は把握していたのか、という議論になる。

それは至極当然なことなのだが、そもそも

いじめは存在しないのが普通で、いじめがある状況が特別

という認識が危ない。

社会には警察がいて常に犯罪行為が行われていないかを監視している。

そこには莫大な税金も投入されている。

なぜか。

それは、放っておくと秩序が乱れ、犯罪が起きるのが当たり前(普通)だ、と考えられているからだ。

犯罪がおきたあとに、その場限りの警察のような組織をつくって、その犯罪周りだけを調べて、落ち着いたら警察組織も解散、なんてことにはならない。

これと同様、学校にも社会でいうところの警察のような機関を設けるべきだ。

つまり、いじめは放っておくと必ず起きる、くらいに思っている方が良い。

今その対策にあたっているのは、教壇に立つ先生。

しかし、先生はそんなに暇ではないし、そもそもそういう職業ではない。

監視と教育は職種が全く違う。

いじめ対策の機関だけではない。

カメラ、録音などのテクノロジーを使っていじめを予防することはある程度できるはずだ。

プライバシーとの兼ね合いも指摘されるので繊細だが、「プライバシー保護」と「監視」は、お互いがゼロリスクを目指すとまったくバランスがとれず平行線を辿る。

結果、なにも変わらない。

学校にいじめ対策機関があり、防犯カメラがある。

それは一昔前の平和な風景とは違うのかもしれない。

理想的でもないかもしれない。

それでも、理想を求めて人が命を落とすことを少しでも減らしたい。

それも人だけがもっている「理性」からくる思いではないだろうか。