https://www.j-cast.com/2018/02/05320455.html?in=news.yahoo.co.jp
音楽の力って、色々と複雑です。 一般的には、直接の意味を緩和させる効果があると言われます。 しかし、時としてそれは強調されることもあります。
音楽は言葉を緩和する
ラブソング。 あれを改めて詩で読むと、結構恥ずかしい内容です。 しかし、本音でもあります。
本音だけれども恥ずかしくて普段は言えない。その場合は歌にのせて言うと、恥ずかしさが若干和らぎます。
社会風刺的なものもありますね。 こんな世の中に誰がした?みたいな歌詞も結構ありますが、それによってアーティストのイメージが決定づけられるほどではありません。
つまり、音楽にのっているので、作品として捉えた場合は、本来の意味意外にも要素があるので緩和される、ということなんでしょう。
音楽は言葉を増大させる
ところが逆に、より意志が伝わるということもあります。 相乗効果的なものですね。
ドイツが東西に分断され、社会主義側である東ドイツで国民に不満がたまるなか、ベルリンの壁の前で東ドイツにスピーカーをむけて、盛大にライブをしたデビッド・ボウイ。 音楽を楽しむ権利は誰にも奪えないんだ、という熱が伝わる極上のライブだったようで、その数年後にベルリンの壁が崩壊、民主化へと流れます。 言葉で訴える演説やスピーチだけで、そのライブ以上の影響力を及ぼすのは難しいでしょう。
JPOPではなかったのが肝
今回問題になっているのは、おかあさんのありかたを歌にのせるという行為に対してです。
上記したように、歌詞は音楽のせて緩和される、という捉え方ならば、その内容が全員と合致しなくても、さほど問題にならないと思います。 一方、音楽にのっているからこその影響を考えれば、知識人の言葉よりも重いのかもしれません。
また、これがもし一般的なJPOPだったら、芸術の自由で問題になってなかったと思います。 それが問題ならば、NGな歌詞の曲なんてありあまるほどありますよね。 今回の曲が、幼児を対象にした曲という位置づけというところがポイントです。
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私の意見を述べれば、この歌詞でかまわないと思います。 多様性の時代なので、家族の形も色々。そんなことはもう世間ではわかりきっていることではないのでしょうか。 記事中にあるように、おかあさんでも飲みに行く人もいるし、それが世間から非難される時代ではありません。
この歌によって、そんなおかあさんが非難された、と捉えるのはちょっと厳しすぎるのではないでしょうか。