アウトプットは、何にしてもとにかく大切だと思う。
しかし、先日こういった言葉を聞いた。
「自分はアウトプットに適したモノを持っていない」
そもそも論でアウトプットを考える
分かり易いアウトプットは、人に何かを与えて、それで対価をもらうというもの。
音楽を始めとしたエンターテイメントや芸術などもこれにあたるし、もっとシンプルに自分の作ったものを売る、という行為も立派なアウトプットだ。
労働力を提供し、給料をもらうのもアウトプットと呼べるだろう。
しかし、例えばスポーツはどうだろう。
スポーツ選手は具体的な何かを人に与えているわけではない。
スポーツ選手は、その試合で何かを人に届けようとしているわけではなく、ただひたすらその競技をおこなっている。
多くの場合勝利や記録を目指している「だけ」だ。
給料をもらうこともあるが、それはあくまで間接的なものでしかない。
野球やサッカーのように観客がいて、その観客からチケット代をもらっているものもあるが、音楽などのライブとはだいぶ性質が異なる。
それに、マラソンなどのスポーツに至っては、チケット代なんかもない。
(スポーツも「労働力」といえるのならば、この限りではない)
では、スポーツ選手の行為はアウトプットではないのか?
いや、これは立派なアウトプットだ。
アウトプットの段階
アウトプットには、段階(流れ)がある。
- インプットをし、そこで何かしらの影響をうけたり、何かを学習したりする
- 行動にうつす
- 誰かに届ける
冒頭に書いた、アウトプットに適したモノを持っていないということを言う人は、上記3までいかないとアウトプットが成立しない、と思っていると思われる。
しかし実際には、アウトプットは2で既に成立している。
スポーツ選手本人は2までのことが多い。
3の作業は、アウトプットしている本人の場合もあるが、そうでなくても特に問題はない。
インターネット出現以前、3の作業を全国規模や世界規模で行えるのは、組織だった大手のみだった。そして、そこには必ず対価を求められる。つまりビジネスだ。
新聞やテレビ、雑誌などのマスメディアがこれにあたる。
現代は、それを個人ができる時代だ。
ウェブサイトを作り、ブログを書き、SNSに投稿する。
これらが個人で、しかもその多くが無料で可能になるのだから、これまでとは次元の違う逸材が拡まる。
対価を求めていないアウトプット素材が世界にばらまかれ、それを世界中の人は目にすることができるのだ。
そこには、「面白そう」というシンプルな発想しかないことも多々ある。
手軽なアウトプットが、意外にも誰かに刺さる
要するに、アウトプットする側というのは、それがどんなターゲットに刺さるのかということを、そこまで深く考える必要がない。
自分が面白いと思い、ほんのすこしのエネルギーを使って投稿した記事、動画等のコンテンツが、世界の誰かの興味を引く、ということがインターネットの世界では日々起きている。
もっと簡単にいえば、とにかく面白いことをすれば、誰かが共感してくれるだろう、という楽観的な考えで全然構わない時代、だということだ。
だから、アウトプットに適したモノ、なんて考える必要は、もはや無い。
ただ好きなことをすれば、自分自身でそれを世界に向けてアウトプット出来る。
自分自身でなくても、勝手に誰かが拡めてくれるかもしれない。
つまり、インプットしたものをとにかく行動にうつせば、何かが起きることが期待できる。
素晴らしい時代だ。間違いなく。