中学時代は、男子は全員丸刈りだった。
今はそんな中学も少なくなったのだろうか。
自分の卒業した中学も、今は丸刈りではない。
実は、自分たちが卒業した翌年から頭髪の規制緩和(?)が行われたのだ。
1年ずれていたら、と思って悔しいかと思うかというとそうではない。
自分たちの学年の生徒会が、当時の先生と議論を繰り広げ、校則改正に至ったのだ。
校則改正後の施行は年度アタマからになるので、自分たちの代が改正して手に入れた毛髪の自由を、自分たちの代が手に入れることはできなかった。
これが、それまで何度も疑問視されてきた丸刈り強制問題が解決しなかった理由の一つでもある。
要するに、生徒会がいくら議論して、その末校則を改正できても、改正後の校則が適用されるときには、その代は卒業しているので、いまいち改正に情熱を注げないのだ。
それをやってのけた自分の代の生徒会は本当にすごいと思うし、誇りに思う。
今思えば、この出来事から学べることがいくつかある。
丸刈り強制の理由
まず、丸刈りというポイント。
そもそもなぜ丸刈りを強制する必要があるのか。
上記ウィキペディアによると、
とある。
いきなり「子供のくせに」だ。
長髪という、単なる髪がのびているという状況に、なぜ「子供のくせに」という言葉を充てるのかさっぱりわからない。
その理由よりはむしろ後半部の、軍人の間で励行されていた決まりがそのまま学校教育現場に持ち込まれたということなのだろう。
要するに、特に丸刈り強制の根拠はない。
根拠はなくても、昔からこうしているから、こういうものなのだ、という思考停止状態だ。
記憶の中では、「中学生らしい」というものもあったが、そもそも中学生らしさは強制するものではない。
中学生の前に「人間らしく」ありたいものだ。
人間らしいという言葉に照らし合わせると、毛髪を強制で短くさせるという行為は、首を傾げたくなる。
変革は誰のために?
そして、何かを変える(大げさに言えば変革)時に、その原動力になっているものが自分(たち)だけのためであっても、成し遂げられないことがあるが、それが全体を見た時には成し遂げられることもある、ということだ。
自分の中学の例で言えば、我が中学校の今後のために校則改正を先生に迫ったのであって、自分たちのためにだけやっていたら、おそらく無理だったのではないだろうか。
これは、今後日本が国会で様々なことを話し合う上でも重要なことだと思う。
ヒト、モノ、カネ、それから情報。
これらが世界をボーダーレスに行き交うこの時代において、自分たちだけのことだけを考えて議論をすすめる行為は、明らかに国際社会になじまない。
そんなレベルの議論をしていることすら、世界中から見られているということを強く認識しないと、この国は大きく道を踏み外すことになりかねない。