小学生の頃、社会の時間が嫌いだった。
当時は、社会という教科を「暗記」の教科と思っていたからだ。
暗記は今でも嫌いで、特に今嫌いな理由は、ググれば良いではないか?と思ってしまうからだ。
記憶は、それ自体が目的ではない
暗記と非暗記というものさしで当時の初等教育である主教科を並べると
社会>理科・国語>算数
というところだろうか。
今の教科書をみる機会があまりないので、今はどうなのかはわからない。
暗記という能力は、確かに必要だとは思う。
これは、スポーツに例えれば筋トレに近い。
筋トレをし、基礎的な身体能力をあげないと、どんなスポーツも上達しない、もしくは上達が遅れる。
しかし、スポーツ同様、それは最終目的ではない。
その先にある目的の「為に」暗記や筋トレをするのだ。
社会を授業で学ぶ理由は、記憶力UPではないはずだ。
もしそうだとしたら、より良い方法が他にもたくさんあるはずだ。
では、なぜ学ぶのか。
学習目的をしっかり意識するべき
社会という科目は、初等教育においては3つにカテゴライズされる。
地理、歴史、公民だ。
そのうち歴史に着眼してみる。
タイムマシーンでも出来ないかぎり、未来のことは誰にもわからない。
誰にもわからないが、予測をすることはできる。
予測をするときに必要な知識が歴史だ。
例えば、ロボットの開発がめざましく、将来的に人の仕事が奪われてしまう、と危惧する人がいるが、そういった人は、産業革命時の労働塊の誤謬を一度知っておいたほうがよい。
そのうえで、心配することは自由だが、その歴史を知ったうえで未来予測をするかどうかでは、質に大きな差が生まれることは容易に想像がつく。
つまり、歴史は何年に何があったということを覚えること自体には、ほとんど意味が無い。
1192年の鎌倉幕府を1191年と間違ったら、何かその後に支障でもあるのだろうか。
記憶学習は、学習意欲が下がることもある
今は、自ら社会の勉強をする。
地理は、単純に旅先のことを知りたいから。
歴史は、これからのことを考える為に必要な知識として得ておきたいから。
公民は、まさに今政治がどのように行われているかが、国の進む道を方向づけるから。
これらは、別に記憶とは関係ない。
記憶しようと思っていなくても、勝手に覚えているものもあるし、やっぱり覚えていないものもある。
世界の国々の首都も全部覚えていないし、徳川将軍15代まで全員も覚えていない。
しかし、そこに興味を持てばすぐに調べられる時代だし、そんな時代でなくても、全員が覚える必要は無いのではないだろうか。
逆に、教育を「記憶」の方に偏らせすぎて、自分のように学習意欲が低下する(つまり嫌いになる)ことだってあることも、教育関係者はしっかりと認識するべきだと思う。