日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです。 趣味は読書とビリヤード。仕事は音楽関係。

肌色は差別用語か

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幼稚園に通う娘の父でありながら知らなかったのが恥ずかしいのだが、今時のクレヨンには「肌色」という表記がなくなっているそうだ。
 
本当か、と思い娘の道具箱を開けると、たしかに肌色はない。
 
その色そのものはあるのだが、色の名前が違うのだ。
「うすだいだい」と書いてある。
商品によっては、「ペールオレンジ」という色の名前がついている。
 

確かに肌色は肌の色ではない

 
なくなった理由は、予想通りだが、人種差別になってしまうことを考えて、ということらしい。
 
言われてみれば、肌の色での差別はいまだ世界に根強く残っており、特に黒人はその肌の色だけで差別されてきた悲しい過去があるし、最近もアメリカの警察による黒人射殺事件が社会問題となっている。
 
日本は島国とはいえ、交通機関も情報も発達した現代では、肌色=黄色人種の皮膚の色という関係が成り立たなくなってきたのだろう。
 
そんな中で肌色をクレヨンで示してしまうことは、それ以外の色を肌の色とみなしていないことになりかねない、ということだ。
 
これには賛否両論あるようで、水色は茶色には文句を言わないのに肌色だけ問題視するのは単純な言葉狩りだという意見と、いやいや水や茶といった物質と、生物の一部である肌の色を同一問題と捉えるのはおかしい、という意見があるようだ。
 
少し話が逸れるが、小学生の頃先生から
「肌色と実際の肌の色は違う」
と教わっていた。
詰まるところの、色の名前と実際のモノの色は違う、ということを伝えたかったのかもしれない。
 

肌色表記で傷つく人はどのくらいいるのか

 
さて、肌色表記に関する自分の意見をズバッと伝えたいところだが、正直わからない。
しかし、少しだけ「肌色でもいいんじゃないか?」寄りだ。
 
自分も含めた多くの日本人は恐らく、肌の色で差別されている人を直接見たことがない。
だから、正直なところ、肌の色で差別されている人たちの心情はわからない。
 
しかし、想像力を働かせても、クレヨンの色の名前と実際の色をみて、差別されているとへこむ人が多くいる、とは考えにくい。
 
色の表記を変えることは、憲法を変えたり法律を変えたりするのと違い、大した労力を伴わないので、少ないとは言え傷つく人がいる可能性があるのならば、とりあえず変えておけ、という思考のもとに変えられたのかもしれない。
 
しかし、結果は構わないにしろ、この思考は危険だ。
いわゆるマイノリティー憑依に近い。
 
肌色反対派が、そこにかかるコストが大した事ないから、というところまで考えて主張しているのならば別に構わないが、コストとは全く関係なく、「差別用語だ!」という一点張りならば、同じ類の主張(つまり傷つく人が少なくてもいるのならば対応すべき)に関してもキリがなく主張が続く。
その中には、莫大なコストがかかるものもあり、決して前進とは言えないものもあるだろう。
 
なにはともあれ、問題の核心は表記ではなく、差別であることは間違いない。
表記問題に敏感になるが故、本当の問題に対する焦点がぼやけることだけは避けたい。