毎朝約30分の散歩を日課となって随分経つ。
7:30から30分くらいなので、帰宅時には通学する小中学生とすれ違うことも多い。
今朝もいつものように散歩に出かけると、後ろから同じ方向に向かって歩いている小学生数名がついてきていた。
特に意識してはいなかったが、結構長い時間平行して歩いたので、その集団の中で交わされる会話が聞こえてきた。
ちなみに、その小学生二人はおそらく2,3年生くらい。
「うちは昔マリンという犬を飼ってたんだよね」
「今でも飼ってるの?」
「もう死んだよ」
「・・・そういうこと言わないほうがいいよ」
一言一句を記憶しているわけではないが、ざっとこんな感じの会話だ。
さて、小学生の会話を聞いて真面目に考察を深めるという行為がどれほど生産的かはわからないが、あえて考えてみよう。
小学生間会話の考察
ここでいう「そういうこと」とは、つまり「死んだ」という言葉を指しているのだろう。
死んだという言葉は使わないほうが良い。
なぜこの小学生はそう言ったのか。
年齢を考えると、おそらくそういう教育を受けているからだ。
そういう教育とは何か。
それは、死ぬという言葉を使うことが良くないこと、という教育、と推測される。
(あくまで勝手な推測)
「死」一文字の意味、「死」を含む単語の意味
死ぬという言葉を使うことは良くないことなのだろうか。
これは間違っている。
死ぬというのは、誰かを傷つけたり、罵倒したりする言葉ではない。
全ての生物に必ず起こる現象を指す言葉で、良い・悪いの問題ではない。
一方、ヒトも生物なので、生存本能、つまり死に対する恐怖心は持ち合わせている。
また、「死ぬ」と「死ね」という言葉の差はたった一文字だが、こうなると突然ヘイトスピーチの一部になる。
死に対する恐怖と、ヘイトスピーチの一部に似ているということが合わさると、大雑把に「死」という文字が入る言葉全体を、なんとなく良くないことではないか、と捉えてしまう。
こう考えた教育者が子どもに教育を施すと、「死」という文字が入っている言葉は、なにかしら良くないことだ、という漠然とした概念を無意識レベルで持つ子どもが育つ。
言語の問題もあるかもしれない。
漢字の場合は、漢字一文字が意味を連想させる。
英語なら「死」は「death」だが、英語では5文字で、一文字ずつ、つまり「d」や「e」には深い意味はない。
本来は、「死」という一文字も、所詮一文字であって、その漢字をつかった単語、さらには文章の意味と比較すると、漢字一文字が持つ意味というのは抽象的、漠然的になるのだが、かといって英語の「d」と比較すると、まだ意味を持ち合わせているようにも見える。
改めて、なにが良くないことなのかを考える
しかし、言葉狩りが行き過ぎている昨今では、その言葉や文字自体ではなく、その使い方、文脈の方にフォーカスすることが大切、ということを教育者は深く認識するべきではないだろうが。
「よくわからないけど、とりあえず”死”という文字、言葉を使うのは良くないよ」といった教育では、教育者本人ですらその根拠を考えていない為、思考力がある子どもが育つとは考えにくい。
子どもは、何かにつけて「なぜ」と問いかけてくる。
それは、教育者自体がゼロベース思考で考え始める良いきっかけになるはずだ。
「”死ね”という言葉を使ってはいけないのはなぜ?」
この問に、明解な答えを出せる人には、まだ出会ったことがない。
だから、教育者も考え、悩み続けなくてはいけないのだ。