少し前に、東浩紀氏の「一般意志2.0」を読んでから、
議論が今後どこまで有用なものかはわからなくなってしまったが、
とはいえ、今のところは議論をしつくして、最後に多数決、という決定過程が
最も民主的な方法だろう。
議論においては、「議論が噛み合っていない」という状況がある。
そのうち、最も代表的なものの一つが、理想論と現実論での議論だ。
つまり、一方は理想論を述べ、他方は現実論を述べる、といった状況。
理想論と現実論
理想論は、道徳や倫理に照らし合わせて、人や社会はこうあるべき、という言論。
自分が思うに、それは世界中の人が最低限の幸福感を感じることができる社会形成のための主義主張のことだろう。
一方、現実論というのは、実際に可能かどうか、ということに根ざした主義主張だ。
どちらかを決めることはできない
何にでも白黒はっきりつけたがるのは人の悪い癖で、どちらの方が正しい、という問題ではない。どちらも必要だ。
理想論ばかり言うな、という主張をする人がいる。
しかし、理想論を封殺する社会は、当然ながらちっとも理想的でない。
種の存続や子孫繁栄だけが目的である、ヒト以外の生物と何ら変わりがない、つまり「人間らしさ」がない社会だ。
一方、ヒトはこの現実で生きているわけで、生きるというのはそれこそ現実的に考えるとエネルギー摂取が絶対不可欠。
エネルギー摂取は、最終的には行動からしかもたらされず、行動には様々な制約があるのは自明。
つまり、理想論と現実論のあり方を端的に表すと、皆が理想を見据えつつ、現実を受け止める覚悟を持っておく、ということになる。
理想論批判過多は良くない
肌感覚では、最近は理想論批判が多い。
それは、現実論の対立項として設定されることが多いため、「理想論ばっかりでなんにもできないじゃないか」とう批判がなされる。
こういった批判は、特にジャーナリストや評論家に向けられることが多いが、これらの人の中には、それが現時点では理想論でしかないことはわかった上で評論している人もいる。
こういった理想がある、というのをふまえたうえで、現時点での現実論を受け止め、実行していくのと、理想論はすべて否定して、現実的な行動をとっていくのでは、ある程度の期間が経過した後の状況は変わったものになっているのではないだろうか。
政治家とジャーナリストという立場の例では、政治家はジャーナリストの言う理想論を全否定するのではなく、出来ればそうしたいが、いまのところ無理、という苦渋の選択という形、逆にジャーナリストは上述したが、自分たちの言っていることは理想論に過ぎず、現実的には今の時点では無理、というスタンスが大切だろう。
批判すべき理想論もある
ちなみに、理想論の中でまったく受け入れられないものもある。
それはこれまで書いてきたことを踏まえれば簡単にわかるが、将来的にも実行不可能な理想論だ。
極端な話、科学が進んで人に翼を生えさせることができたら、環境問題も改善される、といったトンデモ論。
翼があったら理想的だが、近い将来人から翼が生えることは全く期待できない。
上記したような極端過ぎるものは除いたとしても、将来を予測して、その理想がどれだけ現実に近くなるか、という想定が全くない理想論は、空論でしかない。