ドッキリは、サプライズのベクトルが変わったものだ。
対象は主に芸人で、「ガチ」で怖がっている状況をみて楽しむ、という主旨。
以前から思っているが、このドッキリという企画は必要なのか。
ドッキリはいらない
お笑いは大好きだ。
真面目な番組や本、映画ばかりを見ていると、それこそ視野が狭くなる。
そういったときに、お笑い番組や芸人が緊張を解してくれたことが何度もあった。
リラックス効果や癒やしという言葉が乱用されているが、自分にとっては「笑い」に勝るリラックス、癒やしはない。
しかし、ドッキリは正直何が面白いのか不明だ。
もちろん、上記したサプライズの延長のようなドッキリは、そのリアクションが面白い感じることもある。
ところが、最近は見ていて(といっても殆ど見てないが)あまりにもリアリティーがありすぎて、笑えない。
相手が芸人だけに、本当にドッキリにひっかかるのが嫌で嫌でたまらなくても、それを笑いに変えるのが笑いのプロだ、と周りに言われたら反論しにくいだろう。
また、企画の性質上断るということができない。
一方的だからだ。
おそらく、所属事務所を通じてOKをもらっているのだろうが、よほど売れていない限り、そんな理由で事務所にドッキリを断るよう依頼できる芸人は少ないと思われる。
芸人は、その殆どが「なりたくて」なる。
故に、嫌ならやめればよい、という論理は成立する。
しかし、その論理は芸人側が思うことであって、周りの人間にはやはり芸人に対する配慮も必要ではないだろうか。
面白くない人は芸人になれない。
しかし、ドッキリを受け続けるのが芸人の条件だとは思わない。
ドッキリなんかやらなくても、面白い芸人はいくらでもいるだろう。
批判の対象は和田アキ子ではない
冒頭のリンク、批判が和田アキ子氏にいっているが、これは和田氏が企画したものではないだろうから、矛先が違う。
確かに和田氏ほどの大御所となると仕事を選べるので、この仕事を断らなかった、という行為が批判の対象になるとも言えるが、それでも基本的にタレントは「雇われ」なので、批判が和田氏に集中するのはおかしい。
むしろ企画を考えた番組制作会社の方が糾弾されるべきだ。
ドッキリといじめは別問題
ちなみに、ドッキリがいじめなどの温床になっている、という意見もあるが、この意見は疑問視している。
いじめる人は、ドッキリを見ようが見まいがいじめる。問題はもっと根源的なところにある。
きっかけにはなりえるかもしれないが、それを言えばなんだってきっかけになりえてしまう。
関西の漫才に不可欠なボケとツッコミだって、いじめのきっかけになるかもしれないし、それを言い出したらキリがない。