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こういう事が話題になるようになった分だけ、昔よりは良い時代なのかもしれない。
恐らくだが、情報が今ほど拡散しにくかった時代では、議題にもあがらなかったことだろう。
そして、そういったものの中には、考え直さなくてはいけないものも多くある。
ベビーカーにまつわる話題はその典型で、公共交通機関内でのベビーカーのみなし方議論は記憶に新しい。
結果、ベビーカーはマナー違反にはあたらないとの見解になったようだ。
今回は寺院の参拝者に対する看板が話題になっている。
参拝客が激増する年始に、ベビーカーでの参拝を自粛してほしい、という内容の看板だ。
最初に聞いた印象は、そりゃけしからん、だった。
確かに初詣はものすごい人混みで、小さな子どもを連れて行くには適さない場所かも知れないが、逆に言えば、小さな子供を持った親は初詣をするな、ということになってしまう。
個人的にそう思うのは自由だが、社会としては、子どもを持った親だけでなく障害のある人、先天的な病気に悩まされている人などを「公平」にみなすべきだ。
そうすると、この寺院の看板内容は、批判対象になるだろう。
しかし、記事を読み進めると、ことはそう簡単ではないことのようだ。
要約すると、もともとこの寺院はベビーカー「優先」の寺院だったようで、それ専用の通路や人員まで用意していたほど。
それが今回の自粛に変化していった原因は、ベビーカー利用者にある。
ベビーカー優先を逆手に取り、スムーズな参拝をする客が増え、問題となったというのだ。
(詳しくは冒頭記事参照)
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人は感情の生き物だ。
感情はひとそれぞれみんな違う。それを多様性と呼び、今はそれを認めていこう、という流れになっている。
社会、という用語を上でも使ったが、実際のところ社会というのは個人の集まりであり、それはいろんな感情を持った生物が共存する場、ということになる。
社会という一つの場があるのではなく、たくさんの感情の最大公約数があり、それを単体と「みなしている」にすぎない。
この前提に立って物事を考えると、社会の中にある秩序を保つために必要不可欠なことがある。
それは、歩み寄りだ。
多様性を認めるというところだけを切り取ると、どうしてもいざこざが起きる。
上記の例で言えば、ベビーカー利用者ということで優先されている権利をフルに利用する、という考え方は、正しいか間違いかで言えば正しい。
同時に、ベビーカーを自粛するように求めることも正しい。
しかし、正しいことであればなんでもしてよい、というロジックには、歩み寄りが微塵もない。
ベビーカー利用者は、優先にしてもらっている、という気持ちを忘れないこと。
優先通路を使えない一般の人は、ベビーカーの人たちの為に協力してあげよう、と思うこと。
最終的には、このふわっとした歩み寄りが、実は健全な社会の秩序を保つ唯一の方法だ。
それらを法律で全てしばることは絶対にできないし、しても何も解決しない。
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今回寺院側の対応には賛否両論あるようだが、やることが極端すぎるとは感じる。
ベビーカー利用者「しか」通れない通路の設置にしたから、ベビーカー利用者で「さえ」あれば、使って良い、ということを考える人が出てきてしまう。
具体的な方法が思いつかないのが残念だが、人の思いやりや歩み寄りを喚起するような方法であったら、ここまで大きな騒ぎにもならなかったのではないだろうか。