日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです。 趣味は読書とビリヤード。仕事は音楽関係。

動物園や水族館は虐待なのか

【完全版】 イルカのパフォーマンスショー / 名古屋港水族館 【見たい場面だけをつなげてみた】 - YouTube

 

動物園、サファリパーク、水族館などの施設に行くことが好きだ。

おそらく、内心では子どもよりも興奮しているのではないだろうか。

 

一方冒頭の動画コメント欄には、動物虐待、イルカを広い海へ帰してあげたい、といったコメントが見られる。

確かに動物にとって、これらの施設も、こういったショーも、自然の姿ではない。

動物にとっては、自然の中で生きていくことが、もっとも幸せなことなのだろうか。

そもそも幸せなことという概念自体、人間が考えたものなので、これが動物にあてはまるのだろうか。

 

日本のような先進国では、日常で獣に襲われるという事故は少ない。

あるにはあるが、交通事故と比較すればかなり少ないと言える。 

僕らが生まれたときにはすでにそういった環境だった。

 

「自然」という言葉を聞く時に。時々違和感を感じるのは、おそらく自然という本来の意味は、手を加えずそのまま、ということなのに、現代では「手を加えて自然を作っている」からだ。

 

自然を守るという「行為」は、本来の意味からするとずれている。

 

地球が誕生し、生命が誕生し、人類が誕生して、文明を築き上げ繁栄した。

これは全て、「ヒト」という動物が行ったことによる現象で、これはこれで「自然」だろう。

これが批判されるとなると、狩りをする猛獣から草食動物を保護しないだけで批判されることになる。

逆に言えば、猛獣の狩りで草食動物がいるという状況を自然だとみなすのならば、その方法こそ違えどヒトが他の動物の優位に立つことも自然だ。

 

つまり、ヒトは意識しようが無意識だろうが、他の動物よりも、自然に優位に立っている。

 

 

 動物園や水族館のことを考えてみる。

そこは、たしかに動物たちにとって「自然」ではない世界だ。

自然世界にはない檻、飼育員による餌やり、天敵のいない環境、治療をほどこすなど、どれも動物たちにとっての自然とは違う。

 

しかし、それは自然の適用範囲にヒト、もしくは人間が形成する社会を含めるかどうかで見え方が変わる

 

ヒトも適用範囲に含めるのならば、動物園や水族館を作り、そこで利益をあげることにより生活を成り立たせている、という行為だって自然だ。

(生活を成り立たせる行為を、「エゴ」の一括りにはできない)

 

しかし、ヒトには倫理という概念があるので、ヒトを含めた自然において弱肉強食を貫くことは難しい。

殺人は大抵の思想下でも大きな罪だが、弱肉強食ということからすれば強い物が弱い者を殺すことは問題ない、となってしまう。

これは到底受け入れられないだろう。

 

これが大前提としたとき、少なくとも人間社会では倫理観があることが自然ということになる。

 

人間よりも弱い動物を殺すことが良くない、という考え方は、実は人間の倫理観を当てはめているに過ぎない。

 

 

本来の意味での自然と、倫理観を持つ(故に優位な)ヒトの共存を同時に考えるからこそ、自然を守る、動物保護、といった考えも生まれる。

 

動物園や水族館運営の為の過剰な乱獲は避けるべきだ。また、集客のために過剰なストレスを動物に与えるようなイベントは控えた方が良い。

 

観覧者は、いつも寝てばかりいてちっとも動かない動物園の動物をみても、それは映画をみるようなエンターテイメントではないのだから、当然だと思う必要がある。

 

しかしながら、動物園や水族館の存在否定は失うものも大きい。

冒頭にも書いたように、日本や先進国では、多くの野生動物をみることはできないので、そういった施設がないと、そんな動物や生物が同じ地球上にいまこの瞬間にも生きていて、人間との共存を図っているということを知ることはできない。

 

そういった動物を生で見ないと、共存を目指す方法を考えていく、というムーブメントが起きにくくなる。

その結果、動物保護の考え方が消えていき、結果たくさんの動物が絶滅の方に向かうことこそ、ヒトが感じる倫理に最も反しているのではないだろうか。

 

 

 

www.famo-seca.club

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