音楽の世界に入って、もう結構な年月が経ちます。
世間では仕事=嫌な事、辛いこと、退屈なことといった印象を持っている人も多いし、実際にそう感じながら満員電車に揺られて通勤している人もいるでしょう。
私は全くそう思いません。思ったことはあります。でもだからこそ「そんなはずはない」という問いかけを自分に対してし続け、今に至ります。
仕事は嫌なことである場合もあるけれど、そうとも限らない、ということですね。
そしてもちろん、仕事が嫌なことでない方が誰にとっても良いはずです。
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結構な年月が経っているにも関わらず、少しも飽きず、いや寧ろ音楽に対する自分の情熱が上がってきてるのはなぜなのでしょうか。
それは、私が音楽が心の底から好きだからです・・・という理由は、たとえそのとおりだったとしても、あまりにキラキラしすぎていて、むず痒い感じがしますよね。
それに、好きさ加減は人と比較できません。大雑把に1日あたりどのくらい音楽に触れ合っているかや、お金をどれくらいかけているか、どれくらいの知識を持っているかというバロメーターではかることはできるかもしれませんが、スポーツの勝敗のように明確には判断できませんよね。
それで、改めてなぜこんなにも「私が」音楽に魅了されているかを考えてみました。
私が、を強調したのは、個人的、主観的な分析だからです。
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音楽は自由、だと思いますか?
これは間違いです。
音楽は音楽であって、音ではないから、というのがその理由です。
例えば拍手の音、あれを音楽という人はいますか?
あれは音ではあるけれども音楽ではありません。
それを音楽にするためには、それなりの工夫をしないといけません。
それなりの工夫は、人工的に行われるものです。
顕著な使い方は、ドラムパターンのスネアがなるところをハンドクラップ(つまり拍手の音と同じです)に差し替える、というもの。
これはEDMを始めとした様々な音楽ジャンルに使われているテクニックです。
拍手だけだと音、それが楽曲の中のパーツにうまく使われたら、音楽に昇華します。
音楽は、自然の音から人工の音、様々な音の組み合わせで成り立ちますが、その組み合わせ方は無限にあります。その工夫の仕方=テクニックが音楽のクオリティーを決定します。
どんなテクニックをつかって楽曲にするか、つまりそこにどんな発想、意識があるかが音楽の成り立ちの根本なので、音楽は自由ではないのです。
回りくどいのですが、工夫ゼロ=そのままという音楽の自由は認められません。
他の例を一つあげると、詩の朗読は音楽ではありませんが、そこに音程をつけリズムをつければ、歌詞のある楽曲になります。
この場合、音程やリズムが人工的なテクニックですね。
しかし、テクニックは無限にあります。
これは直線的なものさしに乗るものではなく、円の中心からの距離ですらなく、球体の中心からの位置関係といったような多様性を含んだものです。
ここでいう球体容積は限界値を表しています。
例えばむかし音楽が発祥したと言われるアフリカで、動物の骨で石を叩いて、という時代には、その球体容積は決して大きく無かったでしょう。
物的な制限もありますし、そもそも生活自体が不安定で、それに伴い心も不安定です。
(言うまでもなく、音楽は心で感じます)
それから長い年月が経った現代では、生きていく事以外の幸福を追求する人も増えたし、物もあふれています。音楽でいう物はつまり楽器を指しますが、楽器のバリエーションも無限と言ってよいほどに増えています。
球体の容積を求める公式からもわかるように、球体の中心からの距離=半径が大きくなると、その値の3乗に比例して容積が増えます。
つまり、時代が進めば進むほど音楽が多様性を増していくのは当たり前です。
さらに、多様性を増しても、それが昔(球体で言えば中心付近)の音楽を否定することにはなりません。
それらはただ存在するだけです。
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音楽は掴みどころがありません。
売れる音楽も売れない音楽も、上手な音楽も下手な音楽も、わかりすい音楽も難解な音楽もあり、それが良い、悪いを一様に決めることは誰にもできません。
それが音楽の魅力であることはつまり、論理好きな自分にとっていつも「矛盾」を受け入れることになるのです。
論理的にものを考えることは素晴らしいことだと思いますが、それだけではどうやったって解決しないことだらけなのが音楽です。
(だから音楽理論の達人であっても良い楽曲が作れるとは限らないのです)
多分私は、一生音楽に魅了され続けます。
それは、音楽の魅力に対して、論理的解決を試みる自分が性格上抑えられないし、その度に「やはり無理だなぁ」ということを繰り返すことが予想済み、だからなんですよね。