今週のお題「テスト」
テストに良い思い出がある人はあまり聞いたことがありません。
中にはいますが、それは頑張った結果良い点数をとることができた、という思い出で、その「良い」思い出はテストに対してではなく点数に対してであることのほうが多いようです。
テストの意義を改めて考えてみましょう。
教育現場において、どのくらい学習内容を理解しているかを把握することは必要です。
また、入試のように学力で入学する生徒をふるいにかける場合も必要ですね。
これも結果的には、各人の学習内容理解度を知るために行われているので、同じことです。
これらが、テストが行われる理由であるはずならば特に問題ないのですが、同時に競争の要素が入り込んできます。
これはある意味仕方のない現象です。
学年全体の平均点を割り出し、それより高いか低いかが本人たちにわかれば、当然低いより高いほうが良い、となります。
これは学習に限ったことではなく、スポーツでもゲームでも、成績が出るもので競争が起こるのは必然ですね。
難しいのは、この競争が必然的に起こる状況で、教育現場ではそれをどのくらい助長すべきか、です。
一般的な社会生活を送るのに最低限必要な知識というレベルの学習内容ならば、テストの結果が著しく悪い生徒に対し、何かしらの策を考えなければいけません。
その策の一つに、競争原理を用いることもあるでしょう。
しかし、「一般的な社会生活を送るのに最低限必要な知識」とはどのくらいのレベルかというと、多分小学生くらいまでです。
実際にほとんどの大人は、高校入試の問題を解くことができません(高校入試の問題は中学校で習うことですよね)。
では、中学より上のテストにおいて、競争はどのくらい助長されるべきなのか。
私は、健康診断レベルで良い、と思っています。
健康診断は診断なのでテストではありませんが、結果が数字、その他でどのくらい「良い」かを出されるという意味では似ています。
良いに越したことはない、というところも同じです。
違うのは、どのくらい良さを求められるのか、です。
健康診断でも、悪性腫瘍の発見や、異常な数値の血糖値だと判明した時、かなりの強制力で健康状態を改善するよう求められます。
すぐに入院や手術の手続きをしてください、と言われる場合などもあるでしょうが、そういう場合ですね。本人の自由、なんて悠長なことは言ってられません。
一方、そこまで悪くもないけど、もっと良くなることもできる、という場合は緩やかな指導が行われます。
書面でなんとなく書かれたり、指導員から優しく指導を受けたり、といった具合ですね。
私は、中学以上のテストに対する指導なんて、その程度で良いと思っています。
机の上でする勉強の能力が素晴らしいのですが、たったひとつの能力にすぎないのも事実です。
実際に中学生の時点で、将来オリンピックに出場して日本代表して活躍することが期待されるようなアスリートのたまごが、テストの成績が多少悪くても、スポーツの練習時間を削ってまでテストの成績をあげるような指導はなされないでしょう。
オリンピックは極端ですが、人はみんな違い、意外なところに能力を発揮する可能性があるのも事実で、好きでもない、興味もない、そして能力も高くない学習をむりやり引き上げるのは、コスパが悪いのではないのでしょうか。
まあ、勉強は向かないみたいだけど、時間があったらやってみてね、程度で指導すれば良いのだと思います。