古本屋に100円で売ってあったので、買って読み始めました。
いきなり話がそれますが、古本、しかも安いものになると、状態はあまりよくないですね。
本自体の変色などは、内容とあまり関係ないのでまだ我慢できますが、メモや傍線は目障りです。
まあ、それが嫌なら新品を買えばよいのですが、私なら売るつもりの本にはメモや傍線は書き込みませんけどね。
ということで読み始めてまだ最初の1/10くらいですが、すでに面白い。
そこに書いてあったことは、小説の役割についてでした。
村上さん曰く、小説家は判断を下さないのだそうです。物語を読み、判断を下すのは読者である、と。
これは当然のような気がしますが、意外とそうでない小説もあります。
つまり、著者の主張がわかり易すぎるくらい盛り込まれた小説ですね。
これは好き嫌いの問題なのかもしれませんが、私はどちらかと言えば自分、つまり読者側の思索を喚起するような作品が好きです。
これは小説に限らず、映画もドラマもそうです。
そして、私が生業にしている音楽もそうです。
ただ、音楽は必然的に聞き手側に判断(音楽の場合は判断という用語は堅苦しすぎますが、、、)を委ねることになります。
歌詞をのぞけば、そこからどんな事象を汲み取るかには、かなりの多様性があるからですね。
アップテンポの曲を聞いて、ダンスを思い浮かべる人もいれば、レースを思い浮かべる人もいるし、もしかして緊張を感じる人もいるかもしれません。
そして歌詞ですが、そういった理由により、私は主張が強すぎる歌詞はあまり好みません。
主張を強くしたいのならば、文章で訴えたほうがダイレクトで良いし、影響も大きいと思います。
ペンは剣よりも強い、といいますしね。
だから、政治活動なんかに音楽を利用されるのは、少し違和感を感じます。
もちろん、音楽はかくあるべき、という決まりはどこにもないし、それこそ単なる主観なので強要もできません。
が、私が音楽に携わっているというのもあるし、政治活動にもそれなりに意義はあると思っているので、じれったさを感じるわけです。
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私は考えることが好きです。
小説も音楽も、もともとは虚構ですが、それがプロによって積み上げられ、受け手の思索を喚起することができる、という文化ならば、それはやはり1000年続く文化と言っても過言ではないでしょう。