自分自身も、村上作品はフィクション、ノンフィクション、エッセイ含め、ほとんど読んでいる。
売れたのは作品の質や、時代背景、本のデザインや帯などいろんな要素が絡みあってのことだと思う。
それはそれで面白いので、別にだからどうということではない。
前置きが長くなったが、今回は村上作品を紹介するためではなく、その作品が好きな人と嫌いな人について。
好きも嫌いも自由
数日前に書いた投稿に近いが、なぜ多くの人が「距離を置く」「関係を持たない」というスタンスに立てないのだろうか。
言うまでもなく、村上春樹氏の作品が好きかどうかというのは、限りなく個人的なことなので、好きな場合も嫌いな場合も、人に強要できない。できるはずがない。
しかし、なぜか自分の好み以外は理解不能といった意見がレビューを始め多く見られる。
ファンは「村上春樹をつまらないという人は、センスがない」と思い込み、アンチは「あんなのは『文学』じゃない、読む価値もない」と食わずぎらいであることを恥じないのです。(リンク記事より引用)
スポーツじゃないので、こういう作品が良い、悪いというルールはない。
だから、いろんな感想を持つ人がいて良いのだ。そこが面白いところなのだ。
村上作品好きがそれを嫌いな人を、または村上作品が嫌いな人がそれを好きな人に対して、距離を置けば良いだけの話だけではないのだろうか。
簡単に言えば、
「私はこの人の作品すきだな」
「へー、俺は嫌いだな」
「そうなんだね」
これで終わればよいだけの話だ。
感想を述べたら攻撃されるから述べない、というのは残念
自分の感想を述べることによって、人から攻撃されるようになると、段々感想を述べることが億劫になってくる。
せっかくインターネットという自由なバーチャル空間がボーダーレスにできて、そこでいろんな感想や捉え方を見られるのに、攻撃を恐れて感想が減っていき、結局他を攻撃する誹謗中傷しか残っていない、というのはあまりにも残念だ。
文学作品や音楽など、受け取る側に最大限の自由が許されている文化こそ、このインターネット全盛の時代には、自分以外の捉え方を学べるという意味では、面白さが増すものになってほしい。