突然だが、色々な経験、体験をしたからこそわかる、
という論理を自分は信じていない。
経験、体験は、あることを経験、体験した人だけに適用される「固有なもの」だ。
つまり、経験内容は同じでも、それを経験する人によって
感じることがちがうので、一般化できない、ということである。
そもそも、これが一般化できるのならば、
「成功する人生」に必要な経験を統計から割り出し、
マニュアル化すればよいのだ。
なぜそれができないかと言えば、
一重に、経験から感じるもの、学ぶものに
大きな個人差があるからであって、
裏を返せば、経験は「固有なもの」ということになるのではないか。
経験至上主義は、ロジカルな考え方をする自分にとって
とても受け入れがたい。
但し、あくまで、経験「至上」主義が受け入れられないのであって、
経験の重要性を否定するものではない。
経験から学べることがどれだけ多いかは、
誰もがよく知っているはずだ。
問題なのは、経験至上主義になってしまうと、
経験した人至上、という思考に陥りやすい、ということだ。
沢山の経験をした人の話しを聞いたり、本を読んだりすることは
とても重要なことだ。
大切なのは、それを経験した人と自分自身は、
違う人間、ということを意識しているかだ。
そもそもから違う人間だ、と考えれば、
どんなに経験哲学を説かれても、
良い意味で「参考意見」として聞くことができる。
参考なので、自分のことは、最終的にはやはり自分で考えなければならない。
いろいろな経験、知識、知恵をふまえて、
最終的には「自分で考える」ということが
とても重要だと考える。
経験至上主義の弊害はたくさんあるように思うが、
その一つに「縦社会の正当化」がある。
そもそも、なぜ年齢が上の人間は
年齢が下の人間より敬われるのか。
これは、経験至上主義からきたものと推測される。
つまり、長く生きている分だけ経験値が高いので、
年上は偉い、というロジック。
しかし、経験が固有なものという考えからいくと、
このロジックは破綻している。
そして、なぜ縦社会が弊害なのか、それは
思想の自由を奪う危険性をはらんでいるからだ。
簡単に言えば、
「ごちゃごちゃいわずに従え」
という暴論が成り立つ要因に、縦社会が、なり得てしまうからだ。
だれにとっても苦しいことに「精神的抑圧」がある。
精神的抑圧は、なぜ抑圧しなければならないか、がないと
崩壊してしまう。(具体的に死をまねくこともあるでしょう?)
抑圧してよい理由、抑圧される理由、
双方に縦社会至上主義があれば
見事に(?)成り立ってしまうのだが、
なぜ抑圧が発生せざるを得ないのか、を考える機会をうばう、
といった見方もできる。
そして、縦社会に生きるものが
縦社会を嫌う人間に
縦社会に従え、という縦社会を押し付ける。
これが縦社会の恐ろしい所で、
その性質上、縦社会を嫌う人間も巻き込まれてしまうのだ。
しかし、最近はもう気づき始めている。
しかも「経験がまだ少ない人」の方から気づき始めている。
人それぞれじゃん
年上の方々、、
若い人を非難するときに
ちゃんとロジカルに伝えられてますか?
「人生こうあるべき」論に、(経験をのぞいたうえでの)ロジカルな根拠はありますか?
その人のことを考える前に、
自分のことを認めさせようということに躍起になってませんか?
経験したことが自分の糧になったことはすばらしい。
だから、そのことを若い人に語るのは少しも悪くない。
ただ、立場は平等、公平。
経験したことを惜しみなく紹介してあげてください。
あなたが何をして何を感じたか、、、
そこから何を学ぶか、何に感化されるかは、
聴き手に任せてみてはいかがですか?