日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです。 趣味は読書とビリヤード。仕事は音楽関係。

強制と促進〜「子供がやりたいと言っているから」は危険

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小学校、中学校が義務教育なのは、国家が義務教育内容を「不可欠」とみなしているからです。

大人には義務教育を受けさせる義務があり、子どもは義務教育を受ける権利がある。 

 

一方部活動は、その定義に「自主性」を掲げています。

国家としては、「やりたい人だけやるものだ」ということなんです。

 

なのに、部活動強制、というところが問題なんです。

もし部活動に入れることが望ましい、と学校側が思うのならば、それを制度で入部させるのではなく、入部したくなるように促進する、という方が筋が通っています。

 

さらに、部活動は教える方にもいろんな問題を抱えています。

現在のところ、学校の部活動担任を外部から連れてくることはできません。

ただ、学校の先生になった人がかならず何かしらのスポーツが得意、というわけでもありません。

 

結果どうなるかというと、素人同然の人が部活動の担当になるのです。

内田先生の本によると、部活動を担当している先生が、担当している競技の経験者という割合は半分以下だそうです。

教える方も教えられる方も不幸ですが、これは制度を変えないと解決しない問題です。

 

もし入部が強制じゃないとしても、まだ問題は残っています。

強制じゃないということは、入部している子達はその部活動に対して一定のモチベーションを持っていると思って良い。

例えばそれがチームスポーツならば、チームの結束を高め、少しでも強くなりたい、大会で上位に食い込みたい、となるのが自然です。

 

部活動においてそれは良いことである一方、危険もはらんでします。

それは、過熱です。

 

学生は未成年です。

未成年はお酒、タバコ、他いろんなことを法律的に制限されています。

これが意味するところは、制限する側=大人が責任を取らなくてはいけない、ということです。

 

未成年の子たちが集まって部活動を活発に行うときに、過熱によって起こる事故は容易に想定できます。

過同調によるいじめ、脱水や熱射病などの健康管理。

 「子どもたちがやりたいと言っているから」という理由でやらせると、こんな危険がはらんでいます。

 

大人であっても、渦中にある人間は判断できないものです。

ボクシングでは、セコンドがタオルを投げたら、いくらファイターが続けたいと訴えても試合終了です。

これは、試合真っ最中=過熱状態にあるファイターに判断させるのは危険だ、という懸念からくる制度です。

ファイター自身の責任を取るために、ファイターから「続行したい」という判断権限を奪っているのです。

大人ですらそうなんです。

 

数年前から話題になった甲子園での投手投球制限も同じです。

「投げたい」と投手が言っているから投げさせた、というのでは監督失格です。

最終判断は監督が責任を持ってする必要があるのです。

選手が投げたいと言っているから投げさせた、なんて野球の監督じゃなくたって誰でもできます。

(そのくせに、髪型は丸刈りを強制するところもあります、もうむちゃくちゃです)

 

 

私たち大人は、次の世代=子どもにどうやって向きあうのかをいつも考え続けなければいけません。

子供がやりたいようにやらせる、という言葉は聞こえが良いですが、そこには大きな責任が伴っていることを忘れてはいけません。

 

逆に大人が思った通りの方法をすべて強制するのが不健全なのは明白です。

 

つまり、大人が思ったように、強制ではなくどう促すか。

ここに頭を使わなければいけません。

ひっ算を学ぶ理由を説明できますか?

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佐々木さんが出てる回のアベプラは面白い!

 

さておき。

 

教育には以前から関心がありますので、私の意見を。

この中で本田氏が述べている、

「先にゴールを見せて教育すべき」

というところです。

 

私は少し意見が違います。

 

 

日本ではかけ算の九九を小学2年生で学びますね。

算数、つまり論理の基本のきである数学ですが、かけ算九九は完全に丸暗記です。

 

小学2年生に「なんで九九覚えないといけないの?」と聞かれたら、なんと答えますか?そこに、小学2年生でも納得いくゴールを示せますか?

 

九九なら日々の生活で役に立つこともあるし、実際ほとんどの大人が覚えているので、実用性や覚えている人の割合という意味からゴールを示せるかもしれません。

 

じゃあもう一歩進んで、ひっ算はどうでしょう。

大人になって、ひっ算を使うことってどのくらいありますか?

ひっ算が使えなくて困ることってありますか?

多分ありませんよね。

 

仕事中に何かの計算をするとき、紙にひっ算を書いて計算していたら、上司から怒られますよ、電卓使わんかい、と。

 

初等教育と呼ばれる小学校での内容ですら、なぜそれを学ぶ必要があるのか、というゴールを示せないことは多い。

算数だけじゃないですよ。

 

国語に関して、大人になって本を一切読まない人はみんな生活に困っていますか?

社会に関して、江戸時代を知らなくて困ることは?

理科に関して、過酸化水素水って大人になって知らなくて困ります?

 

実際に、小学校のテストを大人が受けて、80点以上を取れる人はどのくらいいるのでしょう?

でも、そのほとんどの人は、立派に大人として生活しています。

 

先にゴールを示すことによって学習意欲を高めよう、と思っても、実際にゴールをうまく示せないことが多いのが現実です。

 

ゴールを示せないのならば、教育不要、となったら、現代の初等教育の多くが切り捨てられることになりますが、それで良いのでしょうか。

 

 

初等教育において私が改善してほしいと思う点は、2つあります。

 

1つ目は、面白さを追求してほしいこと。

歴史上の偉人を社会で習っても、それを面白いと思える子は少ない。

一方、鬼滅の刃のキャラクター名は、びっくりするほど記憶しています。

その差は、面白さです。

 

勉強や学習は、なぜか机の上で紙に書いてやらなくてはいけない、という固定概念があるのではないでしょうか?

教員には失礼ですが、教え方一つとったってYou Tubeの方が面白さ、内容共に圧倒しているものもいっぱいあります。

 

とにかく丸暗記させたい、となったときに、テストを受けさせて、その点数を自覚させ、焦燥感を煽る、といったやり方では、こぼれ落ちる子が多く出るのは目に見えています。

 

2つ目は、多くの人に役立つことを優先してほしいということ。

 

役に立つかどうか、という基準で教える内容を決めるといったって、この国だけでも1億人以上が生活しているわけですから、全ての人に役立つことなんてないし、逆に全ての人に役立たないことだってありません。

上に書いたひっ算や江戸時代だって、ある人達にとってはとても重要な知識です。

 

だから、できるだけ幅広い人に役に立ちそうなことを優先してほしいと思うのです。

毛筆を使った習字とパソコンのコピペ、どっちのほうが役に立てる人が多そうですか?

 

あくまで優先であって、習字なんて必要ない、と言っているではありません。

ただ、学校で教える時間は有限なので、優先順位を決める必要があります。

その順位の基準を、できるだけ幅広く使えるかどうか、にしてほしいと思うのです。

 

具体的に優先順位をあげてほしいと思っているのは、パソコン、スマホ関係とお金のことです。

前者は徐々に導入されつつありますが、後者は皆無です。

 

 

初等教育で、私がもっとも大切だと思っているのは、学ぶ面白さ、大切さを身に付けさせることだと思います。

 

知らないことを知ることが楽しい。

できなかったことができるようになるのは嬉しい。

 

それを体感できるようになれば、社会に出てから勉強をすることが苦にならない、むしろ楽しくなる。

 

上で書いたように、全ての人に役に立つ知識なんてありません。

だから結局おとなになったら、自分の生き方、職業によって必要なことを勉強しなおす必要があるのです。

そのときに、勉強することそのものに抵抗があったら、前に進めない。

だから、勉強すること=面白くないこと、という印象を払拭してほしいと思うのです。

いじめをなくすのも作るのも大人の責任

「いじめを通して人は強くなれる」「将来のために耐えろ」なんて…“生き残った人”の言葉だけに耳を傾けてはいけない | まいどなニュース

 

いじめを通して人は強くなる「かも」しれない。

でも、記事中にあるように、生存者バイアスを考えたら、強くなれなかった人とどっちが多いかを調べるのは難しいし、そもそも強くなった人の方が多いという結果が得られたので、強くなれなかった人の方が悪い、というのはむちゃくちゃです。

 

 

現実論を言えば、いじめはゼロになることはないでしょう。

でも、少しでもゼロに近づける努力をするのが大人の責務です。

いじめられている子に、そうやって強くなるんだ、というのは、大人が自分の責務を果たしてもいないのに、まるで本人のせいにしているという、最悪な責任転嫁です。

 

社会は大人が作ります。

いじめを作り出すのも、最終的には大人です。

ゼロにならないという現実を受け入れつつ、だったらどこまでゼロに近づけるか、という努力を私たち大人はやっているでしょうか。

 

まえまえから書いていますが、学校という決してプライベートではない場所になぜ監視カメラをつけないのか。

駅やお店に監視カメラがあるのは防犯のためです。

同様に、いじめは「いじめ」なんていうワードを使っていますが、そこに暴力を伴ったら傷害罪という立派な犯罪、防犯カメラをつけるのは理にかなっています。

 

もちろん、LINEいじめは防犯カメラで防げません。

これに対する学校の対策は、LINE禁止、というこれまた雑な対策で、効果のほども全く期待できません。

 

一方、防犯カメラは明らかに効果を期待できます。

今でもあるかどうかわかりませんが、体育館裏にいって、、みたいなことはできなくなる。

 

これに反対する理由が、プライバシー云々というのは、効果とデメリットの天秤が狂っているとしか思えません。

いじめで人は死ぬんですよ。

命の問題と、学校内のプライバシー、どっちが大切ですか?

 

防犯カメラをつけるかどうかはの議論も含め、いじめ対策をどこまでも議論し追求していくのが大人の使命。

そこを「ある程度」にして、「いじめで強くなる」なんて言っているのはナンセンスの極みです。

 

そういう人は、大人の資格がありません。

いじめられている子に、わかったようなアドバイスなんてしないでほしいです。

iPadが教育現場に来る

公立高タブレット自費購入、保護者ら賛否 「買うのは当然」「コロナで収入減った」 京都(京都新聞) - Yahoo!ニュース

 

まあ、これは批判が出るのは必然でしょうね。

 

ただ、これを言うのならば、小学生ランドセル半強制の方がよっぽどたちが悪い。

ランドセルなんて、学校以外で一切利用しないし、一般的なバッグに比べてむちゃくちゃ高額です。

iPadは決して安くないけど、ランドセルより使い道が多いし、iPad以外のタブレットとの価格比較でも、ランドセルほどの差ではないと思います。

 

個人的に一番気になったのは、設定費に関して。

設定はゲームをできなくしたり、紛失した時に端末にロックを掛けられるようにしたりする。安心して使えるようにしたい 

 いかにもという感じですね。

正直、こんな設定やったところで無駄かと。

 

デジタルデバイスを先生や学校側が統率するなんて、ほぼほぼ無理だと感じます。

これらの機器は、使い始めたら若い子のほうがずっと詳しくなる。

知らない子も、ググったりYou Tube見たりしてすぐに破ります。

 

教育現場へのデジタルデバイス導入には大賛成。

だから、この問題は避けられません。

学校側ができることは、設定費を調達して統率しようという無駄な努力をするのではなく、デジタルデバイスの使い方の教員側に対する徹底教育ですね。

 

自分たちよりもiPadがササッと使えない教員は、正直舐められます。

誰よりも、とは言いませんが、少なくとも中の上くらいの使い手にはならないと、人にデジタルデバイスを使って教えるのは厳しい。

 

さあ、学校側の力が問われる時です。

これをチャンスと捉えるか、面倒だと捉えるかですね。

子供には現実を見せるべきか

昨日は、ペットがなくなったことで何かとバタバタしました。

実際になくなったのは一昨日。そして昨日は火葬。

 

といっても葬儀はしていません。

ペットに葬儀まで必要ない、という意外にドライな義理の両親の考え方に沿ったものです(私は同意見です)。

 

GWで、しかもコロナで、出かけるところもあまりなかったので、逆に時間をとりやすかったです。

季節もちょうど良いし、すごく晴れていたし。

 

昨日も書きましたが、娘たちは泣きじゃくっていました。

それはもちろん、生まれた頃からいるのが当たり前のペットがいなくなったんだから、当然といえば当然。

しかも、娘たちにとって「死」に向き合うのは初体験です。

 

ただ、泣きじゃくっていたのはそれだけが理由ではないのかもしれません。

泣きながら「怖い、怖い」と叫んでいたからです。

 

思い出したんですよね、私の小さい頃を。

 

 

私がまだ小学生だった頃、あれはおそらく8歳くらい、つまり今の上の娘くらいの歳の頃だったと思います。

 

誰かの葬儀に「2回」参加しました。

2回とも親族の誰かですが、直接の身内とかではなくて、ちょっと遠い親戚だったと思います。

(だから覚えていないのです)

 

そして、1回目に比べて2回目はすごく怖かった、という印象が強いのです。

 

1回目と2回目、何が違ったのか。

それは、火葬場の雰囲気です。

 

1回目の火葬場は、結構きれいで、いわゆる炉に入れるところと、骨上げをするところが全然別のところにあります。

一方、2回目の火葬場はかなり古いところで、炉に入れるところと、骨上げをするところが同じ。

 

2回目のところの方が断然生々しい。

遺体が火葬されて骨になった、ということが小学生でも余裕でわかります。

それがなんとも言えない怖さでした。

 

 

今回の火葬場は、私が小さい頃に経験した2回目の葬儀に近い雰囲気。

それはそれは生々しく、正直大人でもなんとも言えない恐ろしさに囚われます。

 

あの雰囲気を子供に味わわせることが果たして良いことなのか。

大人はその現実に向き合うことが大切ですが、子供にはそんな現実を受け止めるほど現実の経験を積んでいません。

 

子供にはなんでも現実を教える、というのは大人のエゴです。

アメリカ同時多発テロの映像をみてトラウマになった子も多いそうです。

中国のとあるサファリパークでは、ライオンがシマウマを捕まえて食べているところも見られるそうですが、子供の目にはどう映るのでしょうか。

 

ペットの死で子供との向き合い方を考えさせられました。

 

いじめを減らすには、仕組みを変えるしかない

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いじめってなくなりません。

でも、だからこそ少しでも減らす努力が必要です。

 

いじめる方が悪い。

いじめられる方にも問題がある。

 

私は圧倒的に前者の考え方ですが、悪人に処罰をあたえるだけでうまくいくほど単純でもありません。

 

 

私は、社会全体の努力があまりにも足りない、と考えます。

 

なぜ学校にカメラを設置しないのか

 

カメラを設置しないのは、プライベートがぁ、という人がいますが、学校ってそこまでプライベートを求めるものでしょうか?

なにかあったときに、一部の人だけが見られるものとしてカメラ設置は当然の対策です。

これがだめなら、世の中のありとあらゆるカメラはNGなはずです。

 

ちなみに、セキュリティーがぁ、というのは本末転倒です。

カメラが無いがために起こっているいじめがあるんですよ。

 

暴力行為が学校で行われた場合、なぜ警察に連絡しないのか

 

警察に連絡しないのは、学校内で解決しなかったら、学校の敗北だ、という考え方があるそうですね。

 

その昔、まだ日本が軍事国家だった頃は、国家が教育にも踏み込みまくったそうで、それが日本を戦争に向かわせた一つの要因になったそうです。

 

だから、終戦後の教育現場には、基本的に国家権力を行使しない、ということだそう。

 

でも、戦後70年以上経った今現在、国家が閉鎖的すぎる教育現場を監視し行使する、という機能も改めて発動させないといけないのではないでしょうか。

 

そもそも学校や先生は、民主的に決まるわけではありません。

私立以外は学校選択の余地もないし、先生も選べない。

 

国会議員は違います。少なくとも国民の選挙で選ばれます。

国家権力は、そういった人たちの元で行使されるものです。

 

辛くても毎日学校に行くことを重要視しすぎていないか 

 

辛くても学校にいかななくてはいけない理由は、社会にでて辛いことがあったときに逃げ出す癖がついてしまうから、というもの。

 

はっきりいいますが、それは間違ってます。

 

社会に出たら、いくら辛くても最終判断は自分でします。

会社があまりにも辛かったら、自分で「辞める」という判断をしてよいのです。

その判断力を社会に出るまでに身につけておかないと、ストレスで自殺するという最悪な事態が起こるのです。

 

会社のストレスで自殺してしまう要因には、辞めることに対するネガティブな印象を過剰に与えすぎたことがあるでしょう。

 

どこかのYouTuberが話題になってますが、学校は行けたら行ったほうが良いと思いますよ。

でも、行かないは絶対ダメ、というのは極端すぎます。

 

学校に通い続けることが善、行かないのは悪、ではありません。

命があることが善、命を落とすことが悪です。

 

命より大切な思想なんてありますか?

必修科目は、どうやって決めるの?

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国語の中でも現代文は好きで得意、古文、漢文は苦手で嫌いでした。

勉強全般が嫌いではなかったものの、社会と古文、漢文はどうしても好きになれませんでした。

 

そのうち、社会は大人になって好きになりました。

 

なぜ社会が嫌いで、後に好きになったのか。

嫌いだった理由は、暗記のみで面白みがなかったから。

好きになった理由は、それを学ぶ理由がわかったからです。

 

社会に出ていない学生にとってみれば、社会という学問は暗記の学問でしかありません。

でも、社会は暗記の学問ではありません。

地理、歴史、公民など、まさしく「社会」がどのように成り立っているかを学ぶ学問です。

 

多少の暗記は必要ですが、本丸はそこではありません。

自分が社会に出て働くようになって、やっと「我が事」として捉えられた、だから興味を持てるようになったし、好きにもなったのです。

 

で、古文、漢文です。

当時も嫌いで苦手、今は、、、触れる機会もありません。

だから、興味を持つきっかけすらありません。

 

ただ、数学や物理の知識だって社会に出て役立てている人はごく一部です。

では古文や漢文と同じなのか。

 

これは想像力の問題なのか露出の問題なのかわかりませんが、古文や漢文が後に役に立っている場面、人を知らないのです。

 

数学や物理は、自身は使わなくとも、世の中のいろんなところに使われていることは容易に想像できます。

理系だけではありません。

現代文は、日本語を使う以上読解力が必要だし、英語はいわずもがな。

 

しかし、古文や漢文がどのように役立っているのかを私は知らないのです。

 

学問は役に立つかどうかで語るべきではない。

その通りです。

でもそれを言い始めたら、どんな学問も同じ様に捉えるしかなく、すべての学問を学生に教えるのは不可能です。

 

だとしたら、様々な学問の中でどの学問を必修にするか、の選択基準は、どうしても「多くの人にとって役に立ちそうかどうか」になるのではないでしょうか。

 

すべての学問に優劣はありません。

一方、限られた時間、日数で教育を施さなければいけない、という制約があります。

この折り合いの付け方が「多くの人にとって役に立ちそうかどうか」。

 

ちなみに、役に立つかどうかではなく、人気があるかどうかという基準も想定できなくもない。

でも、これには私は反対。

教育内容は大人がある程度レールを引くべきだと思います。

 

 

繰り返しますが、古文、漢文を「役に立つかどうか」という基準で、学問として劣っている、とは思いません。

 

一方、学生が必修で学ばなければいけない学問を大人が選ぶ場合、学問としての優劣がないわけだから、それ以外の基準で選ぶしかないのです。

 

私にはそれが「多くの人にとって役に立ちそうかどうか」くらいしか思いつかないんですよね。