国語の中でも現代文は好きで得意、古文、漢文は苦手で嫌いでした。
勉強全般が嫌いではなかったものの、社会と古文、漢文はどうしても好きになれませんでした。
そのうち、社会は大人になって好きになりました。
なぜ社会が嫌いで、後に好きになったのか。
嫌いだった理由は、暗記のみで面白みがなかったから。
好きになった理由は、それを学ぶ理由がわかったからです。
社会に出ていない学生にとってみれば、社会という学問は暗記の学問でしかありません。
でも、社会は暗記の学問ではありません。
地理、歴史、公民など、まさしく「社会」がどのように成り立っているかを学ぶ学問です。
多少の暗記は必要ですが、本丸はそこではありません。
自分が社会に出て働くようになって、やっと「我が事」として捉えられた、だから興味を持てるようになったし、好きにもなったのです。
で、古文、漢文です。
当時も嫌いで苦手、今は、、、触れる機会もありません。
だから、興味を持つきっかけすらありません。
ただ、数学や物理の知識だって社会に出て役立てている人はごく一部です。
では古文や漢文と同じなのか。
これは想像力の問題なのか露出の問題なのかわかりませんが、古文や漢文が後に役に立っている場面、人を知らないのです。
数学や物理は、自身は使わなくとも、世の中のいろんなところに使われていることは容易に想像できます。
理系だけではありません。
現代文は、日本語を使う以上読解力が必要だし、英語はいわずもがな。
しかし、古文や漢文がどのように役立っているのかを私は知らないのです。
学問は役に立つかどうかで語るべきではない。
その通りです。
でもそれを言い始めたら、どんな学問も同じ様に捉えるしかなく、すべての学問を学生に教えるのは不可能です。
だとしたら、様々な学問の中でどの学問を必修にするか、の選択基準は、どうしても「多くの人にとって役に立ちそうかどうか」になるのではないでしょうか。
すべての学問に優劣はありません。
一方、限られた時間、日数で教育を施さなければいけない、という制約があります。
この折り合いの付け方が「多くの人にとって役に立ちそうかどうか」。
ちなみに、役に立つかどうかではなく、人気があるかどうかという基準も想定できなくもない。
でも、これには私は反対。
教育内容は大人がある程度レールを引くべきだと思います。
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繰り返しますが、古文、漢文を「役に立つかどうか」という基準で、学問として劣っている、とは思いません。
一方、学生が必修で学ばなければいけない学問を大人が選ぶ場合、学問としての優劣がないわけだから、それ以外の基準で選ぶしかないのです。
私にはそれが「多くの人にとって役に立ちそうかどうか」くらいしか思いつかないんですよね。