日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです。 趣味は読書とビリヤード。仕事は音楽関係。

小学校で教える体育の授業で教えることは、勝つ事の大切さ?

 

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私は、いわゆる「体育会系」というものを嫌悪しています。

体育ではなく、体育会系です。

 

体育会系って、つまり目的達成のためには苦しさ、痛さ、辛さは仕方ない、むしろそれら障壁があった方が、相対的に達成感が上がる、という思想を持っているイメージがあります。

 

こういう思想がどこから生まれるのか。

私はその要因の一つに、小学校の体育の授業があると思います。

 

今の体育の授業のことはよく知りませんが、昔はとにかく、勝つための方法を教える授業でした。

陸上でも水泳でも、記録をのばす方法、球技でも相手チームに勝つ方法を中心に授業が進められます。

柔道などの格闘技系は言うまでもありません。

 

音楽をやっている人は全員、オリコン上位を目指したり、紅白出演を目指したりしている、と言う勘違いと同じで、スポーツをやる=勝ちを目指さないと意味がない、と思われがちではないでしょうか?

 

もちろんそういう基準でスポーツをやることに異論はありません。

しかし、勝ち負けよりも楽しめるかどうかの基準を重視する人がいることも事実です。

 

体育会系の人は、負けて楽しいと思うことなんてない、という考え方でしょうが、そうでない人はいてはいけないのでしょうか。

 

たしかに勝負事なので、負けるより勝つ方が楽しい。

しかし、その勝ちにこだわるが故に、辛い練習やさまざまな努力を必要とされるくらいならば、たとえ勝負に勝てなくても、最終的には楽しい、という人も確実にいます。

体育会系の人たちは、「こういう人たちはスポーツをやる資格がない」とでも言わんばかりの印象を受けます。

 

小学校は集団授業です。

短距離走でも、他人との比較になることは避けられません。

そこで運動神経がない人は「自分は平均より著しく遅い」ということを知ることになります。

小学生くらいの年齢だと、これは焦ります。

 

しかし、短距離走が遅くてもちゃんと真っ当な人生は歩めます。

速い方が良いでしょうが、遅くても危機的状況というわけではありません。

運動神経がない人が走ってもよいし、それが楽しいという人だっている。

 

私は、小学校の体育の授業で教えることはむしろこっちの方ではないかと思います。

 

目的達成のために立ちはだかる壁に負けず、打ち破り、進んでいく、という考え方「だけ」が正しいわけではありません。そうでない人もいてよいのです。

 

職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

 

この本には、村上さんが習慣にしているジョギングについての文章が書いてあります。小学校の頃は大嫌いだったそうです

 

まずスポーツの楽しさを教え、スポーツ人口全体を増やすことこそ、結果的にはスポーツの普及にも、日本のスポーツ成績をあげることにもつながるのではないでしょうか。

 

スポーツの目的は勝つことではありません。

スポーツは、それを通して心身ともに健康になることが目的のはずです。

スポーツに関わったばかりに、心が疲弊する人なんていたら、それこそ存在意義が揺らぎます。