ある程度の年齢になると、人を管理する方側になります。
私も若くない年齢なので、例外に漏れません。
私の上には私を管理する立場の人もいます。
いわゆる中間管理職という立場になります。
※実際にはフリーランスなので、一般企業における上下関係とは少し違います
一昔前まで、職場での上下関係では、中間管理職に与えられている自由も責任も比較的少なかったように思います。
基本的には、ルールや慣例に従って業務をすすめる。
わからないことが出てきたら、上司に聞く。
上司からの指示が常識の範疇ならば、それに従いさえすれば、私自身が責任を負うことはあまりありません。
こういった状況に慣れ、かつうまくいっていると、規範意識は高まるし、上意下達の正当性も強まります。
乱暴な捉え方ですが、戦後の焼け野原だった日本が世界の経済大国にのし上がる過程では、上記の規範意識、上意下達の正当性を軸とした組織運営がうまく機能したとも言えるでしょう。
時代は変わり、バブルもはじけ、高度成長期のことなんて教科書の上でしか知らない世代が多方面で日本を支えていくようになりました。
同時にインターネットの普及により、世界中の情報がいつでもどこでも誰でも手に入れられるようになり、その情報の中には、多様な価値観も含まれています。
身の回りを見ても、報道を見ても、なんとなく日本経済はヤバくないか、という空気が蔓延しているのが明らかな今日、その原因を探る中で、世界中から日本に流入してくる多様な価値観を知っているがために、ここが原因かも、と思う人が現れるのは必然です。
つまり、高度経済成長を体感していない世代にとってみれば、高度経済成長期の成功体験にすがった価値観は、世界中の情報を手に入れられる人たちにとってみれば、「古いよ」の一言で終わっちゃうわけです。
そんななか、今です。
規範意識と上意下達の正当性が「古いよ」で崩壊に向かっているのは、ルールを(常識の範疇で)破ること、上の人が言うことに従えば良いってもんじゃない、ということです。
これを一言で言えば、自由です。
しかし、重要なのは、上にも書いたように、その分上の人が負ってくれていた責任も負うことになります、ということです。
例を出しましょう。
自分が10人くらいの部の長であったとします。
部内の一人が遅刻常習犯です。
これにどう対処するか。昔だと、社則に従ったペナルティーがあるのかもしれません。
しかし、どのように対処するのかを決めて良い自由と、その責任が自分にあったら、そこにつぎ込むべきエネルギーが質、量共に上がります。
部長として、その部をうまく舵取りすることが自分自身に与えられた責務、その立場で遅刻者を厳罰に処すか、放任するか、勤務時間体制そのものを変えて完全成果主義にするか、、、
それらが中長期的に、部のスムーズな運営にちゃんと繋がるか、ということを考えなくていけなくなるということです。
逆に言えば、それまでは考えなくてよかった、とも言えます。
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自由があるけど責任もある。
自由はないけど、責任は負いたくない。
どちらを選ぶか、その選択も自由です。