ゴミの分別の仕方は、地域によっても違うようだが、少なくとも3つくらいにはわけないといけないのではないだろうか。
昔は燃えるゴミと燃えないゴミの2つだったと記憶している。
それが次第に増えていき、多いところでは20種類以上にわかれているところもあるらしい。
しかし、ゴミ分別は本当に必要なのだろうか。
そもそも、なぜゴミは分別しなくてはいけないのか。
それは、昔は燃えるものと燃えないものくらいで充分に区別ができていたものが、時代が進むに連れ、ペットボトルのように、燃えるのかどうかよく分からないものが出現し、同時にゴミの総量も増えていったためだろう。
質も量も増えたことによる、処理の負担軽減の為、ということだ。
しかし、処理の軽減という意味でいけば、一番簡単な処理は、全てのゴミを同じように焼却できれば、効果は高い。
素人の考えだが、現代の科学力をもっても、ゴミの焼却は分別なしにはできないのだろうか。
ゴミの質も量も昔に比べれば確かに増えたかもしれない。
しかし、科学力も同じように、いやそれ以上に発達したのではないだろうか。
全てのゴミを焼却できる焼却炉(またはそれに類するもの)の開発はすすんでいないのだろうか。
以前投稿した、傘の進化についての記事。
100年前とはいわず、たった30年前から比べても、今は様々なものが科学力で進化を遂げている。
一番進化を遂げているのは電話か。
有線で、ダイアル式しかなかった電話をはっきりと記憶している。
それがプッシュになり、コードレス電話が出現、ポケベル、PHS、携帯、スマホ、IP電話と、すざましい進化を遂げた。
この業界でこれだけの進化を遂げた間、焼却炉でなんでも焼却できるような開発は進まなかったのだろうか。
あくまで個人的な予想だが、実はもう既にそういったもの技術的にはできると思う。
それに歯止めにかけているのは、分別がなくなることによって損する人たち、
いわゆる「エコビジネス」に携わっている業界という気がしてならない。
歴史に目を向けたら、そういう考えは労働塊の誤謬に突き当たる。
便利なものは、間違いなく世に出るべきだ。
しかし、今回はあくまで想像の範囲でしかない。
ただ単純に、ゴミの分別と現代の科学力に、なにかしらの違和感を感じただけの話だ。
もっと簡単にいえば、分別がただただ面倒なのだ。