今朝、虚構新聞か?と思うようなニュースを見つけた。
ネット上にあふれる情報は、真偽の程がわかりにくいので(マスメディアもいまや同様だが、、)、このニュースの真偽も疑ってしまうが、本当のことだという前提で話をすすめる。
いやはや、すごいマナーがあるものだ。
印鑑というもの自体の存在ですら賛否両論あるのに、その押印の仕方にマナーがあるとは、驚き以外の何でもない。
その理由もすごい。お辞儀をしているようにみえるから、ということだ。
大半のマナーは、そもそも論で考えるとくだらないものが多いと思う。
このブログでは散々投稿してきたが、マナーが「相手に不快感を与えない為に生じた行為」のはずなのに、マナーを知っているかどうかの知識レベル査定に使われている気がしてならない。
今回のニュースを見て思った、別の視点
今回のニュースとみて、少し違うことを感じた。
マナーの行為自体は、やはり良いものだな、ということ。
今回のニュースを見て、ネットの反応が「くだらない!」となったのは、その行為自体がくだらないということもあるだろうが、それ以上に、それを「マナー」と呼んで、すこしだけ強要するからではないだろうか。
ある人が、印鑑を左に傾けて押印し、その理由がお辞儀してる様にみえるからというものだった、というところまでなら、「へー、そんなこと考えながら押印しているんだね」で終わると思う。
それが「マナー」と言われただけで、社会人としてはそうしなくてはいけない、といったゆるい強要が始まる。
押印でお辞儀を表すことに疑問をもっている人も、マナーだからという言葉を使われれば、やらなくてはいけない、という雰囲気になってしまう。
(今回のニュースに関しては、実際のところはそこまで浸透したマナーではないらしいので、強要というほどのものではないらしいが)
つまり、マナーの行為自体は、別に人からとやかくいわれる筋合いは無いと思う。
品があること自体は、もちろん良いことだ
別の例を一つ。
もう亡くなってしまった義理の祖母(面識なし)は、とても礼儀ただしい、品のある人だったらしい。
その人が誰かに手紙を出すときに、最後に自分の名前に「〜より」をつけていたが、その「より」を書く位置が、自分の名前の真下ではなく、すこし右下に位置していたらしい。
つまり、「より」の真上は空白なのだ。
これの理由を義母が教えてくれた。
「先に亡くなった義理の祖父、つまり義理の祖母の主人の名前を、その空白に見立てている」
ということだ。
いまよりもまだまだ男性社会だった頃、妻は主人より一歩下がって、ということを、手紙でも表している、という意味だ。
これを聞いた時に、よくそんな気をつかえたものだ、と思うものの、特に不快感やくだらないという感情は抱かなかった。
自分自身はそういったことはいまでもしない、にも関わらず、だ。
この行為が、家族の中だけであってもマナー化し、そうしなくてはいけなくなったというだけで、反発心が芽生える。
やはり強要では駄目
要するに、マナー云々といったことは、その行為をみて見習いたいと思う人だけが自主的に見習えば良いと思う。
強制されて行うマナー行為が、相手にとって実は失礼でない、誠実でないという気がしてならない。
マナーを強要する前に、真似されるような魅力ある人間に自分を磨くことの方が何倍も大切だ。