最近は価値観の多様化により、将来の夢のことを語ったりすると、
「夢は持たなくてもいいじゃないか!」
的な反論がくるようだ。
しかし、自分の最も嫌いな「強要」をしているわけではなく、夢があったほうが楽しいと思うけど、、、程度のことだ。
残念ながら殆どの人の夢は叶わないが、それでも夢を持つことは素晴らしいことだと思う。
※重ねて書くが、決して強要ではない
夢を追いかける第一段階
夢をかなえるためには、それが夢というくらいだから、そう簡単には叶えられないということであろう。
つまり、そこには相応のエネルギーを使わなくてはならない。
そこで、軌道に乗ればひとはその対象に没頭することになる。
平易な表現を使えば、ハマる。
ハマった状態というのは第一段階で、ハマりさえしなかったものは諦めたほうがよい。
1日◯時間これをやるぞ、といった決まりを作ってやらないと続かないという時点で、その方向には向いていないのかもしれない。
夢を追いかけるのに、「やらなければならない」という意識がある時点で矛盾している。
つまり、やっていたら勝手に時間が経っていた、と思えるくらい好きなものを選ぶべきだ。
第二段階は休憩、アソビ?
夢をおいかけるのは本当にいろいろな意味で大変で、第一段階ですでに結構レールから外れる人もいる。
しかし、一方でハマるまでいく人も少なからずいる。
ここからが第二段階だ。
第二段階は脇道を作ることだ。
脇道を作ることとは、具体的になんだろうか。
それはつまり、休憩。アソビと呼んでも良いかもしれない。
脇道を作る理由
なぜこれが必要になるのか。
それは、一般の人の生活の中に、普段から休憩やアソビがあるからだ。
要するに、夢の種類にも依る。
その夢が例えば、「エベレスト登頂」といった、観る人、聴く人を対象としていない場合は、第一段階が全てだ。
しかし、芸術分野など、そこに観る人、聴く人がいた場合、その人々を感動させる為には、その人の気持ちも理解できないといけない。
典型的な人の生活を考えると、普段は仕事をし、週末は休み、時間があるときは趣味に時間とお金を費やす、といった感じだろうか。
こういった人たちを対象に感動をさせたい場合に、感動の内訳の中には「共鳴・共感」の部分が含まれる。
あることに没頭していると、その共感は生まれにくい。
簡単そうで意外とできないのが脇道
没頭さえできないレベルの段階からすると、休憩やアソビは楽だが、第一段階(没頭)をクリアしている人にとっては、休憩やアソビといった脇道は、相当に意識しないと、ついつい怠ってしまう。
それは、脇道にいくことがサボることという強迫観念に駆られるから。
今回は、色々と小難しいことを書いたが、要約すると簡単だ。
夢の為には、たくさん努力して、少し遊ぶことが大切。