当ブログでは、とにかく何度も何度も情報のことを伝えている。
インターネットの普及は、つまるところの情報伝達量の増大と伝達速度が飛躍的に上がったことを意味する。
インターネットは、国境をいとも簡単に超えてくるので、当然ながらその価値観はグローバル化する。良くも悪くも。
普通の人でも使えるようになった言葉「欧米諸国では」
日本で議論されている内容についても、昔なら一部の識者や海外滞在経験者しか知り得なかった「欧米諸国では・・」といったコアな情報を、自分たち「普通の人」が持っているというのは当たり前だ。
その結果、「普通の人」の間でも「欧米諸国では・・」という言葉が多用されるようになった印象をうける。
あくまで個人的な印象だが。
そして、この「欧米諸国では・・」という言葉が出ると、それに呼応して「ここは日本なんだから」といった反論が噴出する。
この意見には、
「何でも欧米諸国に合わせれば良いというものではない、日本独自の価値観ややり方だってあってもよいではないか」
というニュアンスを含んでいるのではないだろうか。
その通りだ。
日本独自の価値観ややり方はもちろんあって良い。
「欧米諸国では」を使う人の主張は?
しかし、「欧米諸国では」を多用する人は、なにも「日本に比べて欧米諸国の方のやり方の方が良い」と主張しているわけではない(そういう人もいるだろうが)。
では、どういうことなのか。
それは、
日本の中にしかいなかったら考えられないような価値観ややり方も、欧米諸国に目を向けてみたら、その事例が意外にも結構ある。従って、その価値観ややり方には、他の「可能性」もある。
ということを主張したいのだ。
世界の情報に日本を照らしあわせてみる
一度固定観念を取り去って、ゼロベース思考で議論してみようという試み。
その結果、日本のこれまでの価値観ややり方になったとしても、それはそれで良い、ということ。
結果が同じでも、このプロセスは大きな意義を持つ。
情報が多く、そして早く流入してくることの一番の良さは、世界の情報に触れ、自分がそれまでに感じていた固定観念、いや感じることすらなかった固定観念を、自分の、自分たちの力で再構築出来る機会を与えてくれることだと思う。
日本がグローバル化することは大切なことなのか。
その議論は、グロバール化せざるを得ない状況が生まれる可能性をはらんだ時になって初めて可能になる。
つまり、それは現代だ。
その結果日本が選択する日本の方向性は、たとえこれまでと同じ日本の独自のものであっても、そうでなくても、そこに「誇り」がもてるようになるのではないだろうか。
それに、議論に必要なデータは、幅広くあればあるほど良いのは自明だ。