普通という言葉を使うのは難しい。
そして、時にそれは都合の良いように使われてしまう。
学生時代に、生活費、その他を稼ぐため、本当にたくさんのアルバイトをした。
力仕事から接客業まで、長期も短期も、何でもやった。
そして、アルバイト面接時に最もよく聞いた言葉の一つに、
「うちは、他とは違うから」
だ。
当時から理屈っぽかった自分は心のなかで、
「少なくとも、面接官がそう言っているというところと時給は、他と同じじゃないか」
と突っ込んでいた。
アルバイトだったので、社会にでたら違うのだろうと思っていたのだが、さほど変わりはない。
何かと言っては、
「僕達の業界は特殊だから」
「うちの会社は他とは違うから」
というワードを聞く。
他の業界に比べて特殊だったり、他とは違ったりするのならば、そこにそれ相応の能力が求められるはずだ。
つまり、その能力分を対価として要求するのは、筋が通った主張だと考える。
実は、昔その気持を率直に伝えたことがある。
「他とは違う能力を求める分だけ手当をください」
すると担当者、
「お前、普通はそんなこと言わないぞ」
自分は音楽業界にいて、アーティストと呼ばれる人と接することが多い。
そして、アーティストにとって最も辛い評価は、「普通」という言葉かもしれない。
そんな世界にいるので、普通でないことにはしっかりとした価値があることは痛いくらいに感じている。
一方、一般的な感覚、つまり普通ということにも一定の価値はあるのは当たり前だ。
しかし、それらは自分の主義主張を正当化するために都合よく使われるべきではなく、どのくらいそれが(統計として)一般的かを冷静に表すものでしかない。
特に、企業で「うちは普通じゃない」と声高に叫んでいるところには注意だ。
普通じゃないと前もって伝えているから、どんなに辛くても受け入れろよ、という正当化がまかり通ってしまう。
実際、上記したアルバイト面接時、他とはちがうということをあえて面接でいう理由の一つは、少々辛くても苦しくても「だから他とはちがうっていったでしょ?」と言うための口実、という側面があるに違いない。
たとえそれが法律に照らしあわせてスレスレであっても、だ
第一、普通かどうかと、正しいかどうかは、各々が独立した指標だ。
関連性はない。
教育でもそうだ。
個性をもつ、今風ならばアイデンティティーをもつとも言う。
教育者がそろってこういうことを言い始めたら、その行為自体に個性もアイデンティティーもないという自己矛盾を引き起こすことになる。
組織だけでなく、個人でも普通という言葉は怪しい。
自分の周りにいる人の中で、どの人が普通かを考えて、その人を列記すると、それは親密度が強くない人ばかりになりがちだ。
逆に、親密度が高い人は、みんな良くも悪くも普通ではない、とみなしてはいないだろうか。
普通という言葉をもって主義主張をする人には、要注意だ。
そこにはおそらく、主義も主張も、ない。