極論を使う場合は、なぜ極論をだしたのか、という経緯を考えなければいけない。
差が微妙な場合に、あえて極端な例を出すことによって、その差を浮き彫りにしようという論法。
浮き彫りにしたいのは「差」であって、その事実を別のことにそっくりそのままあてはめることができないことは分かっている場合がほとんどだ。
極論だ、と逃げる人は、事実をそのままあてはめることができない、というところだけに批判を繰り返す。
今起こっていることも極論なのか
例えば、日本が異常とも言えるくらい平和な状態が続いているなか、同じ時シリアでは、小さな命が脅かされている、という現実がある。
居酒屋談義レベルで、今この瞬間にも、遠くの国ではこういった悲惨な事が起こっている、ということを言うと、極論だ、と返されることがある。
おそらく、とてもとても遠い国だし、置かれている状況やこれまでの歴史もまったく違うのに、そのことを今この場で話してなんの役に立つのか、という意見だろう。
しかし、何百年も前の事で現実離れした話をしているのならばいざしらず、それは今起こっていること。
極論というより、極端な事実が現に起きているということを知ることと、それを考えることこそが大切なのだ。
こういった話題を、上記したような理由で避けるのは、平和ボケを露呈しているだけだ。
日本、世界、戦争を考える
情報がこれだけスピーディーに伝わるようになると、遠い国であっていることもリアルタイム同然に把握することができる。
それを対岸の火事と思って気に留めないのは、いつか日本が国際社会において孤立してしまうことの温床にはならないのだろうか。
恐らく、だが、少なくとも日本には、年齢、職業を問わず、戦争を「したい」と思っている人はいない。
唯一の被爆国であるこの国は、その悲惨さを体験している、または体験した人の子孫が多く住んでいる国なので、どんな国よりも戦争に対する反対意識が強い国と言ってよいだろう。
だから、戦争をしないために、しないように気をつけなければいけない。
終戦時、焼け野原だらけで何もかもを失った頃の日本ならば、たとえ戦争をしようにもその体力が残っていなかった。
しかし、当時の面影が、良い意味で全くない、といっても良いくらい、日本は目覚ましい発展を遂げた。
あんなにぼろぼろだった国が、今や世界の経済のトップ3以内に入っている。
それだけ長い月日が流れたとも言えるし、その間に世界情勢も大きく変わった。
日本、世界がどれだけ変わっていっても、戦争はしない、という主義だけは絶対に曲げてはいけない。
逆にいえば、戦争を未然に防ぐためには、目まぐるしく変化する世界情勢を観念論抜きに冷静に見つめ、ロジカルに対応していかなければいけない。
つまり、これまで通りにしておけば戦争にはならない、とはいかない、ということだ。
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戦争の話は極論なのか。
いや、まず戦争の話が極論、という概念自体を払拭することが求められている時代だ。