クールビズなどの政策によって、若干ネクタイ文化は薄れた感もあるが、それでも正式な場ではやはりネクタイ着用が礼儀でありマナーだという空気は、今なお強い。
ネクタイは、昔からオシャレのためのものだった
ネクタイは、もともと兵士が防寒のために着用したのが起源と言われる。
目的こそ違えど、たしかにネクタイは首すじから入ってくる風を防いでくれるので、防寒になる。
しかし、間もなくそれはオシャレとエレガンスを競うためのツールになったということ。
礼儀やマナーとは厳密には違うものの、雰囲気としては昔から、機能面以外のところに重点を置かれたものだったということになる。
現代におけるネクタイ、スーツの意義
さて、自分は礼儀、マナーの形骸化は問題だと思うものの、やはり最低限の礼儀、マナーは必要だと思っている。
それは、礼儀、マナーを守ることによって心が切り替わることに期待できるからだ。
ネクタイを含むサラリーマンやOLの正装もそういう見方をしている。
部屋着や寝間着からスーツに着替え、ネクタイを締めたときには、気持ちも仕事モードに変わる。
つまり、仕事モードに合わせるために服装を着替えるのではなく、服装を着替える事によって仕事モードに切り替えるのだ。
モードの切替は、個人的なもの
本来は逆だと思うが、こうやって自分のモードをコントロールする気持ちはわからないでもない。
しかし、この行為は限りなく個人的なものであって、一般化できるものではない。
大切なのは、服装、その他を利用して気持ちをコントロールするということであって、それがスーツやネクタイでないといけない理由は特にない。
これは企業によく見られる、強引な一般化で、これ以外にもたとえば、飲食店始業時の声出しがある。
接客用語をそろって言う(叫ぶと言ってもよいレベル)風習は、それを言うことによって従業員の士気をあげる効果を狙っているのだろう。
つまり、「エイ、エイ、オー」だ。
ついでに、それが接客用語だったら、その用語を覚えるのにも役立つので、接客用語を叫ばせよう、ということに違いない。
しかし、みんなで同じ言葉を口にしたら士気が上がる、というのはそんなに一般的なのだろうか。
他でもない自分は、学生時代に多くのアルバイトをしその風習をやった(やらされた)が、全くそう感じなかった。
ある程度の年齢になれば、自分のモードコントロールは、自分でしなければならない。
そのやりかたは限りなく個人的だ。
歯磨きをすることによって士気をあげても良いし、曲を聞くことでやる気スイッチを押しても構わないだろう。
礼儀、マナーというもの
礼儀、マナーに関して、2つの不思議な点が浮かび上がる。
一つは、本来は相手に不快感を与えない為の行為なはずなのに、スーツを着る、ネクタイを着用するという行為が独り歩きしている(形骸化)。
どちらにも共通していることは、結果とプロセスを天秤にかけたときに、秋からにプロセスに傾きすぎているということだ。
本当は、結果とプロセスは対極にあるものではなく、どちらも大事だ、ということにそろそろ気づくべきではないだろうか。