私が通った小学校には、知的障害者のクラスがありました。
同じ小学校とはいえ、普段そのクラスの子達との交流もないし、クラスの場所自体も結構離れたところにありました。
全校生徒が700人位いる中で、そのクラスには確か10人くらいだったと思います。
年に数回、そのクラスの子達と交流するイベントがあります。
一緒に遊んだり、給食を共にしたり、といった具合です。
しかし、知的障害者だからという前に、普段から交流がない人と突然仲良くしろと言われても難しいものです。
私の娘をみて、それが幼稚園児ならば可能かもしれないとは思います。すぐに仲良くなる。
小学生にもなると、知らない人に対して若干の壁をつくるのは仕方のないことかもしれません。
高学年になればなるほど、その傾向は強まるのではないでしょうか。
◆
小学4年生の頃のことです。
その時はイベント内容の中に、「会話」がありました。
といっても、知的障害者とスムーズに会話するのは難しい。
それで、質問をしてそれに答える、という最もシンプルなカタチになります。
私たちのクラスが知的障害者のクラスの子に質問をして、それに答えるという形式です。
質問内容の制約はとくに定められていません。
しかし、その内容は、まるで決められているかのようにとても簡単なものばかりになりました。
お名前はなんですか。
何歳ですか。
好きな食べ物はなんですか。
趣味はありますか。
知的障害者にも、障害のレベルがあるようで、これらの質問に余裕で答える子もいれば、理解できない子もいます。
そんな中、こんな質問がされました。
今度の連休はどこに遊びに行く予定ですか。
この質問を言い終えるのと同時くらいに、先生が質問者を制しました。
それは、そんなに難しい質問はわかるはずないので不適切、ということを意味する行動です。
確かに連休、予定といった言葉は、その前までの質問に比べると難度の高い言葉です。
結局、回答者が答えかどうかさえ分からないまま、次の質問にうつりました。
◆
知的障害者は、私たちがその人達と普段交流が全くなくても、確実に存在しています。
私たちと同じ世界に人として生きています。
ところで、私達には色々な能力が備わっており、能力の優劣があります。
これが動物ならば、弱肉強食、自然淘汰という言葉で切り捨てられるのかもしれませんが、人は違います。
平等でない人びとを、公平にしようと試みます。
知的障害というくらいなので、知的能力に関しては健常者より劣っているのでしょう。
そんな知的障害者でも生きていける社会にすることを国家として理想に掲げています。
だから、障害者対策にも予算をつけるし優遇も作ります。社会的弱者を皆で支えようとしているわけです。
それがどのくらい機能ししているかはわかりませんが、姿勢としてはそうだ、ということです。
知的障害者に対して、難しい質問をしたら、そんな難しい質問には答えられない、と切り捨てられた。
この行為は、障害者を思いやっての行動なのでしょうか。
障害者でない人、つまり健常者ですら、難しい質問を受け、それに答えられず、あるときは恥ずかしい思いをします。
障害者である以上は、そんなことは避けられないし、その数も多いから、せめてコントロールできる場所では回避させてあげよう、という考えに基づいた質問制止だったのかもしれません。
でも、あれから30年くらい経った今でも覚えているくらい印象深い出来事であり、それは後味の悪い出来事だったのは事実です。
◆
上記しましたが、能力の差があれど、一人でも多くの人が共存できるような社会というのが、少なくともこの国では理想だとされます。
しかし、平等を目指しすぎると共産主義になりますね。共産主義がうまく機能しないのは歴史が嫌というほど証明しています。
逆に自由競争になりすぎると、動物となんら変わりません。極論を言えば、殺されたって、殺されるほど弱いほうが悪い、となります。
人殺しは違法なので本当に極端ですが、経済力も同じですね。
日本の納税額は所得に比例した額になります。これによって、貧富の差が大きくなりすぎることを防いでいます。これがもし自由競争至上主義だと、低収入であることも関係なく納税させれば良いだけで、それでいくら貧乏になっても知ったことか、ということになります。
健全な社会とは呼び難いですね。
障害がある人は、健常者とは違うから障害者なんです。色々な意味で特別扱いせざるを得ません。
しかし、その特別扱いはあくまで、健常者も障害者も公平に生活できることを「目指して」なされるべきです。
こういった根源的な考えが抜けた行為は、障害者の自立を阻害することにもなりかねません。
今ならばそう思えますが、小学生の時はそこまで考えが至らなかったのが残念です。