ある著名人による記事に、「バラエティー番組等で使われるテロップは不要」という趣旨のものがありました。
具体的には、食べ物 を映した際に「この後スタッフが美味しくいただきました」と出るアレです。
苦情を回避するための免罪符となっている、と書いていますが、実際テレビ局側にはそういった思惑があるでしょう。
テレビは教育の為にあるわけではありませんので、食べ物を粗末にしてはいけないことはテロップではなく、親が子に伝えるべきで、もし苦情が出ても矛先が間違っている、と主張していますが、これもまさしくその通りです。
教育という観点からすると、お笑いでのツッコミは暴力行為とみなされる可能性も否定できず、あれすらも「双方の合意のもとに行われています」というテロップが必要となります。
手持ちの花火をするシーンがあったら、「撮影後にゴミは責任を持って回収しました」というのもの必要かもしれません。
もうキリがありませんね。
これはジャーナリストの佐々木俊尚さんが言うところの「マイノリティー憑依」に近いものだと考えます。
マイノリティーではありませんが、構造が似ていると感じるのです。
マイノリティー憑依は、例えば障害者の気持ちを代弁する健常者による主張です。
「障害者の気持ちになって考えるべきだ!」と言っているその人は障害者ではなく、障害者に憑依しているだけだ、ということですね。
子供は決してマイノリティーではないのですが、「子供に悪影響だろ!」と言っている人たちの中の何人が、実際に悪影響を受けている子供に直接会ったことがあるのか疑問です。つまり、影響を受けている人に憑依しているわけですね。
とまあ、実際にあんなテロップがなくても、社会は良くも悪くもなりません。
しかし、それが行き過ぎて、「文句があるなら、見なければよい」というのは極端すぎます。
というのも、様々なメディアの中で、テレビは良くも悪くも「受け身」中心だからです。
新聞もネットも雑誌も、見るのには自分から行動を起こさないといけない能動型ですね。
テレビも、スイッチだけは自分で付けないといけませんが、一度つけてしまえば後は勝手に流れ続けます。この部分は、他のメディアと性質が大きく異なります。
新聞、ネット、雑誌は、嫌なら見なければ良いのですが、テレビが同列に語れないのはそこに要因があります。
垂れ流しされているテレビを子供が見る機会は、他メディアに比べてかなり多いのではないでしょうか。
だからこそ、そこは「見なければよい」だけでは済まされない問題が潜んでいると考えます。
極論は結局別の歪を生みます。
苦情を怖れて過剰に表示されるテロップも問題ですが、視聴者や親の責任と突き放してしまうのものやはり問題であって、そのバランスをどのあたりにするのか、というテーマで議論を深めていってほしいものです。