雨の日は、当然以前の投稿に書いた、傘の進化の遅すぎについて考えることが多い。
同時に、そういえば小学生の頃に、雨はじめじめして嫌いだと言うと、大人(親だったか、先生だったか、他の誰かだったかは覚えていない)から、
「お百姓さんは、雨がふらないと仕事にならない。雨が嫌いというのは、お百姓さんにとって失礼です」
と言われたことがある。
当時は、そうなのか、と思って素直に聞いていたが、年を重ね大人になり、はたしてこの考えはどうなんだろう、と思うようになった。
実家が農家の友人にそのことを尋ねると、
「失礼かどうかは知らないけど、そんなことで不快な思いなんてしない。大体、自分自身も雨は大嫌いだ」
と言う答え。
こういうのは、よく見かける。ITジャーナリストの佐々木俊尚さんがよく使う「マイノリティー憑依」に近い。
先日あった森三中の大島さんのニュース。
「産めない女性に対して配慮がない」森三中・大島の出産シーン放映に非難殺到 | アサ芸プラス
これも同じようなものだ。
これは本当に産めない人が非難しているのだろうか。産めない人のことを思いやっていっているだけのような気がしてならない。
もっと言えば、思いやっている気になっているだけだ。
障害者の「害」が悪い印象を受けるといって「障がい者」という表記に変わったというのもそう。障がい者の方々は、確かに相当な苦労をされている。そんな方々は、表記に「害」が入っているというだけで落ち込んだりする暇などないだろう。
これを言い出したら本当にきりがないのだ。
津波によって家を流された人がいるのに、サーフィンを楽しむのは失礼なのか。
交通事故で身内の亡くした人を思いやって、車を廃止する運動でもするのか。
手足が不自由な人がいるのに、楽器を演奏するのはよくないことなのか。
実家が農家の友人の話をもう一つ。
自分の家も、食事の際のマナーには厳しく、ごはん粒を残すとえらく怒られた。
これは、今でもそうで、残さず食べるし、そのほうが良いとは思う。しかし、その理由の中に、作ってくれたお百姓さんのことを思って、という理由はあまりない。
なぜなら、友人曰く
「米粒は、庭やら玄関やらにいっぱい落ちてるよ」
とのこと。
米粒を残されたから不快に思う百姓さんなんて本当にいるのか。
(重ねて言うが、別の理由で、米粒は残さず食べた方が良いと思う)