政治への関心が下がりすぎるのは民主主義の危機です。
これはどうしても避けたいところですね。
そんな中で政治家の感覚が庶民から離れている、という批判があります。
それは確かにそうなのかもしれませんが、それって何か問題があるんですか?
政治家でも特に批判が集中するのは首相クラスだと思いますが、そのクラスの忙しさは半端じゃないですよ。
命も狙われやすいので、一日中SPが付くし、分刻みのスケジュールだし。
そんなんでどうやって庶民と同じ感覚になれるんですかね?
仕事終わって飲み会行ってほろ酔いのままネットサーフィンを楽しむ、なんていうことはできなさそうです。
だから、庶民の感覚でないことを批判するんではなくて、選挙で落とせば良いだけです。
ちなみに、批判と選挙で選ばないことは全く違います。
考え方の違う人は、悪ではなく違いなだけです。
私としては、庶民の感覚と同じだろうが違おうが、政治をちゃんとやってくれればそれで良いと思っています。
そもそも、こういう時に使われる庶民という用語は実態がないように思います。
それは、普通のひとという言葉に似ています。
私の知人で、この人は普通だな、と思う人って正直いません。
でも普通ってたくさんいるから普通のはずです。矛盾していますね。
だから庶民の感覚に近いかどうかと言う前に、庶民の感覚という概念が成立していないので、私にとってはどうだって良いことなんです。
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人にはいろんな能力があり、人によって何に長けているかが違うから面白い。
政治家は政治をすることに長けている人がなるわけです。
しかも、とんでもなく長けているから、プロなわけです。
庶民の感覚という概念が仮にあったとしても、そんな人が政治のプロになれるとは到底思えません。寧ろ逸脱している方が期待できます。
勿論逸脱の方向は大切ですが、かといって庶民感覚との近さで政治力を語るのはいかがなものなんでしょうかね。
私は音楽業界ですが、ステージに立つアーティストもその周りのスタッフも、結果を残している人はみんな普通とは言い難い何かを持っている人だらけですよ。
政治と音楽を同列には語れませんが、普通や庶民という概念って、たとえあったとしても、良いことかどうかはまた別の話です。
反権力が哲学になっているような人を見ることも多いのですが、それは哲学ではなく立ち位置でしかない、ということをジャーナリストの佐々木俊尚さんは言っています。
本当にそのとおりだと思います。