日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです。 趣味は読書とビリヤード。仕事は音楽関係。

退院→お祝い→お祝い返し→お祝い返しの返し、、、

前日まで身内が、とある病気で入院していましたが、無事に退院しました。 私は結婚しているので、親族には私の方と妻の方との2つがあるわけですが、こういう時には退院のお祝いをお金や物で送るという慣習がありますね。

で、経験ある人も多いと思いますが、このお礼が何度も往復するのです。 何より面倒なのは、毎回「お礼はいらないから」という割にずっと続くことです。 何なんですかね、これ。

例えば今回は、

退院祝いをお金で送る(お返しは要らないから、、) ↓ お返しのものを送る(お返しは要らないから、、) ↓ お礼の文書と物を返す(お返しは要らないから、、)⇦イマココ

まどろっこしいったらありゃしない。 なんで要らないという言葉を聞き入れないのかよくわかりません。 多分まだ続きますね、これは。

まあ、当人同士で勝手にやってくれるのならば構いません。 しかし、私たち夫婦の身内をまたがることなので、ノータッチというわけにはいきません。 結局あいだにいる私たち夫婦は、このまどろっこしいやりとりに振り回されることになるのです。

先日も礼儀やマナーについて書きました。 こういった慣習も礼儀やマナーの一貫なのかもしれません。

しかし、そもそもそれが何のために行われるものなのか、という事よりも、行為自体が目的化しているとしか思えません。 お礼を送りたいのではなく、送らなければならない、というのが本音でしょう。 それははたして礼儀やマナーの本質にかなっているのでしょうか。 儀礼を果たしたという各々の自己満足でしかないように思えます。

日本には、相手のことをおもいやるという名の下の礼儀マナーが数多くあります。 「つまらないものですが」といってものを差し出すとき、本当につまらないものかどうかを気にしている人はあまりいないと思います。 これは、相手のことを気遣っているのを言葉に表しただけで、本当のことを言っているわけではありません。

また、外の者に対して使う、内の者を指す敬称は省略すべき、という礼儀もありますね。 例えば家族。子供が親を呼ぶとき、家族や身内なら「お父さん」「お母さん」ですが、外に向けて説明するときは「父」「母」です。 会社の内外についても同じで、これは身内よりも人様の方を相対的に上とみなしている、ということの現れです。 実際にどちらに敬意はあるかは、また別問題です。

わからないでもないですが、これらがいきすぎるとつまり、その法則だけでが礼儀、マナーの知識として残り、 その本質は忘れ去られる、という本末転倒が起こるのです。

人をもてなす行為は良い行為です。 その行為の本質を忘れないように気をつけたいものですね。