日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです。 趣味は読書とビリヤード。仕事は音楽関係。

子育てをする親とやりたい仕事をしている人

育児の感想を親に聞いたら、

「大変だー!」

「言うこと聞かないー!」

「お金かかるー!」

みたいなマイナスのことが多いと思いませんか?

 

私も子を持つ親ですが、これらマイナスイメージは誇張でもなんでもない。

子供は小さいヤ○ザだ、という表現もあるらしいですが、言い得て妙だと思うくらいです。

 

片方の親(多くは男性でしょうけど)が全く育児参加してくれないと、その大変さで心身ともにボロボロになり、育児ノイローゼにかかっちゃう人もいるそうですが、わかる気がします。

 

でも、これらの感想だけ聞くと、子供を作ったことを後悔していることになりそうですが、(ごくたまにそういう親もいるものの)そうはならないんですよね。

私も例外に漏れません。

 

これは、本当は後悔していても、倫理的にそんなこと言えるわけない、ということなんでしょうか。

大抵の親は、後悔しながら育児しているんでしょうかね?

 

多分違います。

ここばっかりは、本当に理屈じゃない。

愛だ!なんて言ったらむず痒いですが、あえて言えばそのくらいありふれた表現を使うしかないかもしれません。

 

もちろん、たくさん苦労するからこそ醸成される愛、みたいなものでもないと思います。

苦労せずに育児をしたって(そんな状況は私には想像できませんが・・・)、ちゃんと子供を愛せるのだと思います。

(だから、育児は苦労すればするほどよい、みたいなわけのわからないアドバイスはやめましょう)

 

これって、やりたい仕事を貫いている人と似ていると思うんです。

 

長者番付にあがるような大金持ち。

一生遊んで暮らしても、孫の孫くらいまでなくならないくらいの資産を保有している大富豪はたしかに存在します。

 

そんな人たちに、庶民がおそらく一度は抱いたことがある疑問。

 

なんでまだ働くの?

 

お金はもう十分あるわけだから、お金の必要性で働いているわけではない。

じゃあまるで遊園地で遊ぶように楽しい?

 

いやいや、多くの起業家は、仕事がラクだとは言いません。

仕事での苦労は何時間、いや何日に渡っても話せるくらい大変なこと。

じゃあなんで働くのか。

 

これにも理屈がないんですよね。

使命というか、やりがいというか。

なにかしらふわっとしている概念。

楽しいから、といった簡単な言葉では言い尽くせないものです。

 

子育てはめちゃくちゃ大変だけど、子供がいることは幸せだ。

働くのはめちゃくちゃ大変だけど、働くことは好きだ。

 

私は理論が好きですが、本当に大切なものには理屈がない。

そう思います。

しっかりとした知識か、わかりやすさか


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社会の授業でならった覚えはあります。

 

主教科のなかで最も嫌いだった教科が社会です。

ありふれた批判ですが、とにかく覚えるだけ、といった印象。

 

いつでもどこでも誰でもググれるこの時代ですが、知識として

「暗記しちゃったほうが良い」

ことってたしかにあると思うんです。

 

でも、これを

「暗記しないといけない」

と誤認識させるのが学校教育。

 

だって、テストで教科書見ちゃだめでしょ?

 

ここで問題。

テストって、何のためにあるでしょう?

子供に知識教養を与えるため?

 

違います。

テストは、学校側がその子の学力を測るためにあります。

直接的には、決してその子のためにあるものじゃない。

 

その子のためにあるものじゃないテスト。

テストのために暗記させるという授業方針。

そりゃ嫌いにもなるでしょう。

 

 

小学校か高校かによっても違いますが、学習の基本原理は「興味」だと思います。

だから、どうやってそこに興味をもたせるかが最大命題。

テストで良い点をとってみんなに凄いって言われるため、なんていう理由で興味を持たせるなんてあまいあまい。

 

要は、面白いと思わせるかどうか、です。

全員にとって面白いというのは不可能ですが、できるだけ多くの人に面白いと思われる工夫は必要。

 

教科書でならった仏教の授業と冒頭の動画、大人こども関係なく、どっちが面白く感じるか、一目瞭然でしょ。

キャラクターやイラスト、フォントや動画の長さ。

仏教の知識とは別に、面白く、わかりやすくするためのいろんな工夫がされています。

 

アニメではしっかりした知識がつかない、なんていう批判もありそうですが、しっかりとした授業を受けてきたはずの大人は、しっかりとした知識がついていますか?

むしろ、あの頃の思い出は、とにかく面白くなかった、だけじゃないですか?

 

しっかりとした情報、知識に重きを置くのか、面白さ、わかりやすさに重きをおくのか。

このバランス感覚が教育者のほうに無いうちは、授業の生産性はあがらないでしょうね。

ほどほどにしときましょう〜禁止ではなく別の選択肢を与えてみる

ドリフを見て育った人と「教育に悪い」と禁止されて育った人に違いはあったのか?→コンテンツの制限とその後の人生について興味深い体験談が寄せられる - Togetter

 

程々が大切、の典型ですね。

 

有害と決めつけて、バラエティーを一切見せなかったら、友だちどうしの会話に入れなくて寂しい思いをします。

 

かといって好きなだけ見せても良いかというと、テレビは受け身なので、自発行動が癖づきません。

それに、見過ぎたらさすがに自発行動以外にも影響出そうですよね。

 

私はというと、友達の会話におおよそついていけるくらいは見ていた、というところです。

 

上記しましたが、自発行動のものでハマっているものは、ある程度そのままで良いのでは、と思います。

 

ただ、親のエゴとして(エゴがゼロの人はいません)子供に長時間のゲームを點せたくない、と思うことはありますよね。

そういうときに、ゲームやっちゃだめってしつけて解決するのなら簡単なんですが、子供はそんなに聞き分けが良いわけではありません。

むしろ、そこまで聞き分けがよかったら将来心配なくらいです。

 

こういう場合は、ゲームよりも楽しいことを用意してあげられるか、が勝負です。

どんどん出かけるとか、面白い話を聞かせるとか。

 

不買運動に対してのあるコメンテータの意見で

「何かを"買わない"という運動じゃなく、別のものをこぞって”買おう”という運動の方が前向きで良いのでは?」

というものがありましたが、私もそう思います。

 

人を傷つけることや、危険なことは、ダメ!とはっきり伝えて良いと思いますが、テレビやゲームのような、悪い気がする、という程度のものは、前向き対処で乗り越えましょう。

プッシュポップ〜どうやって思いついたんだ・・・

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恥ずかしながら、知りませんでした、プッシュポップ。

欧米で販売開始、韓国で流行しSNSで拡散されて日本でも流行り始めたそうです。

 

私が知ったのは・・・昨日です。

妻と娘2人が買い物から帰ってきたら、手に持っていました。

 

遊び方は・・・押すだけです。

全部押したら、ひっくり返してまた押す、ひたすらその繰り返し。

 

私もやってみましたが、はまるほどではないものの、クセになるのはわかる気がします。

娘たちは、ドハマり。

帰りの車中でやりすぎて、車酔いしたほどだそうです。

 

このおもちゃ、なにが凄いって、何が面白いか誰も説明できない、ということです。

ドハマリしている娘二人に

「何が面白いの?」

と尋ねると、口をそろえて

「わからない」

と答えます。

ハマっている理由が、当の本人たちにもわからないわけですね。

 

こういう商品ってどうやって思いつくんでしょうね?

需要に応じた商品開発をするのが一般的だと思いますが、需要があったわけではないでしょうし。

 

加えて、メーカー内でも、よくGOがでたな、と。

プレゼンしても、そこに科学なり統計なりの根拠がなかったら却下されそうです。

少なくとも日本では。

 

 

何かをするときに、理屈を重視しすぎるとこういう商品は生まれないのかもしれません。

それに、理屈で商品開発をすると、大抵の場合莫大な資金力がある大手に負けます。

 

せめておもちゃくらいは、アソビゴコロで商品開発したいものですね。

経済も最後はマインドに引っ張られる

日本は良い国だと思いますが、こと経済に至っては「良い国」と言えない人が多いんじゃないでしょうか。

 

GDPは世界3位で立派な成績ですが、あらゆる経済的な統計で立派な数字なのはGDPくらいで、賃金や生産性や株価やら成長率やら考えたら悲惨なものです。

 

経済、つまりお金のことですが、お金って毎日毎日使うものなので、難しいこと考えなくたって、身の回りをみたら、日本の経済状況が芳しくないことは実感できるんじゃないでしょうか。

 

なぜ日本の経済はうまくいかないのか。

最終的な原因は、多分マインドです。

 

いくら貰えるかはさておき、一生懸命働く。

苦労は買ってでもしろ。

和を乱すな。

これらが美学として語られ過ぎではないでしょうか。

 

いくら貰えるかはさておき、一生懸命働いたらどうなるか。

これは、企業にとっては都合が良い。シンプルに人件費を抑えられます。

結果、低賃金のままです。

 

ただ、いくら貰えるかはさておき、一生懸命やることが全部だめだとは思いません。

むしろ、自然にそういうことになる場合があります。

それは、それが「好きなこと」の場合です。

 

好きなことだったら、没頭してやりまくるでしょう。

それは素晴らしい。

ところが、好きなことをやって生きていけるほど甘くない、という人たちが出てくる。

つまり、苦労するべきだ、という人達ですね。

 

そして、いくら貰えるはさておき、一生懸命働くことや、苦労は買ってでもしろという人達とは考え方が合わないな、と思ったって、それが認められる、つまり選択できることも少ない。

それは、みんなで一致団結、和を乱さないことが大切だからです。

 

私は別に「いくら貰えるかはさておき、一生懸命やること」「苦労は買ってでもしろ」という考え方を否定しているのではありません。

そういう考え方もあってよいけれども、そう思わないという選択肢もあってよいのでは、と思うのです。

 

でも、それが少数だとなぜか間違いになり、強制的に考え方をそろえなくてはいけなくなるんですよね。

「多数決だ」なんて言う人がいますが、多数決は、決定しなくてはいけないことにのみ適用されます。

生き方、働き方、考え方なんて多数決で決めるものでもないし、それで正解、不正解が決まるものでもない。

 

いくら貰えるかはさておき、一生懸命働く。

苦労は買ってでもしろ。

和を乱すな。

 

これらはすべてマインドです。

なにかの技術力が足りないのならば、技術力を上げる努力をすればよい。

それは目に見えてわかりやすいから努力もしやすいでしょう。

しかし、マインドは目に見えない。

だからなかなか変わらない。

そもそも、初等教育においていまだに上記のようなマインドが根付いている。

これで日本全体のマインドが変わっていくのかというと、結構難しいと思います。

 

希望はやっぱりネットを始めとした情報。

島国日本でも、情報だけは国境を超えてどんどん入ってくるようになりました。

その情報量は、初等教育で植え付けられたマインドを吹き飛ばすくらいになってきていると思います。

 

日本での当たり前が、世界では当たり前じゃない。

そう感じ始める年齢が下がっていき、堂々と「僕はそう思わない」と言えるようになれば、ようやく日本経済も変わり始めるのかもしれませんね。

司馬遼太郎はおもしろい、以上

youtu.be

 

司馬遼太郎氏は、好きな作家の一人です。

竜馬がゆくはもちろん、有名な作品はほとんど読みました。

 

動画で語られていることそのままですが、私はエンターテイメントとして、これで良いと思っています。

ただ、エンターテイメントといっても、ゲームや音楽といったエンターテイメントとはまた違い、教養の部分も含んだエンターテイメントですね。

 

私は、歴史の授業が嫌いでした。

歴史に限らず、「社会」という科目はただひたすら覚えることばかりで、全然おもしろくなかったのです。

歴史に興味を持ったのは大人になってからです。

 

日本の教育分野でもっとも足りてないことのひとつに、面白さの追求がないことがあげられると思います。

歴史はドラマだ、なんて言ったって、実際授業では何年になにがあった、みたいなことを延々と覚えさせられます。ここにどんなドラマを感じればよいのでしょう。

 

順序は大切ですが、具体的な年にさほど大きな意味はありません。

地下鉄サリン事件があったのは1995年ですが、その年を覚えることと、その事件がどういった社会的背景で起こったのか、その後にどんな影響を与えたのかのほうがずっと大切だと思いませんか?

 

私は物理が好きです。

物理が好きな理由は、公式が好き・・・なわけありません。

高いところからバレーボールとボウリングの球を落としたら同じスピードで落ちる、という話を「んなわけあるかい!」と思って聞いてたら、本当におんなじスピードで落ちている映像をみて、めちゃくちゃ驚きました。

そのときの「なんで??」が物理好きになったきっかけです。

 

何かに興味を持つためには、面白さを感じるのがもっとも早い。

歴史を勉強したら社会人として役に立つ、とかいうふわっとしたことよりも、シンプルに面白いと思わせることのほうが大切だと思います。

 

学ぶことの大切さを知れば、勝手に一生勉強しますよ。

司馬遼太郎氏の作品は、教育現場で使うのは賛否あるものの、多くの日本人が歴史に興味を持つきっかけを与えてくているのは事実です。

変わらなければいけない、と発言している人がずっと変わっていない

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やっぱり年をとるというのはこういうことなんですかね、、

議論が最後まで噛み合ってません。

 

田原氏は、

「俺は日本を良くしようと思っている、君たち(成田氏、ひろゆき氏)は日本がだめになっても良いと思っているんだ」

と幾度となく発言しています。

 

成田氏やひろゆき氏が日本を良くしようと思っているのか、その熱量が田原氏と比較してどの程度のものなのかはわかりませんし、はかりようもありません。

 

しかし、その熱量はともかく、良くしようと思ったら具体的な方法を考えなくてはいけないのは確かです。

熱量さえあればなんとかなるとでも?

 

若手を育てる、と言っている田原氏が、本人よりもずっと若い成田氏やひろゆき氏を、「お前らはだめだー」と言っている。

この矛盾が日本全体を覆っているのだと思います。

 

政治家も企業も、大人も子供も、日本はこのままではだめだと思っているのは間違いない。

でも、そう言っている人自体が、このままであることを望んでいるかのような行動や言動になっている印象です。

 

若者を育てる第一歩は学校だと思いますが、娘が通う公立小学校は、地元故に私の妻が数十年前に通った小学校と同じです。

親という立場で小学校を見ても、建物は多少きれいになったものの、中身は全然変わっていません。

そこの教員が「みんな違って良い」なんて言うのです。

 

絵が書いてある定規一つ許されない。

赤、青の色鉛筆ですら、指定のもの以外禁止。

学校配布のパソコンは、自宅で学習以外に使わないようにと、電源コードの持ち帰り禁止。

 

話にならない。

確かに田原氏は政治家とのコネクションも多く、多少なりとも影響力があるのでしょう。

ご自身の口から、「俺はこう言って従わせた」的なエピソードが語られます。

でも実際にこの30年、決して日本がよくなったとは思いません。

 

だから変わらなければいけないのです。

変わらなければいけない、と発言している人がずっと変わっていない、という自己矛盾に田原氏はじめ多くの人が気づくところがスタートだと思います。