祝儀は不思議なシステム
祝儀は、常識的に考えて3万。
2で割れない、妥当な金額だからだそうだ。
日頃払うお金の中で、祝儀ほど不思議なお金はないのではないだろうか。
まず、祝儀とはなんのためにあるものなのかを考えなければならない。
祝儀という名前を素直に受け止めれば、それは、新たな門出を迎えた新郎新婦のためにあるもののはずだ。
しかし、実際のところは、その額のほとんどは、会場の使用料と飲食代になる。
ホテルをはじめとした披露宴会場の売り上げを押し上げているにすぎない。
確かに、普段では食べられないようなフルコースの料理を食べられる。
しかし、だとすればそれは会費や飲食代として計上すればよい。
あれだけの金額を出して、メニューの選択肢さえないのだ。
第一、祝いの形は人それぞれで良いはずではやいだろうか。
自分の場合は、音楽という形が一番祝いを伝えられる。
絵でも、詩でも、なんでもよい。
披露宴こそ、そのクオリティがどうであれ、気持ちさえ伝われば喜ばしいこととなるはずだ。
学生の頃の悔しい思い出
自分が学生の頃、典型的な貧乏学生で、とにかく毎日バイトを掛け持ちでしてた。
それでも学費や生活費に追われ、残るお金は僅かばかり。
そんな中、とても親しい先輩が結婚式を挙げることになり、招待を受けた。
祝いたい気持ちは人一倍あった。
しかし、参加できなかった。
そう、祝儀を出す余裕が全くなかったのだ。
お金がないのは自分のせいだ。
だから、貧乏な生活を強いられることを誰かのせいにはしていない。
しかし、お金がない人間は、親しい人を祝う場にいる権利すらないのだろうか。
引き出物も、フルコースの料理もいらない。
ただそこにいて祝いたいだけなのに、それすらできない。
この時の悔しさは、今でも鮮明に覚えている。
それから月日が流れ、自分が結婚することになった。
式は身内だけで挙げたが、披露宴は是非とも挙げたくなかった。
その結果、自分たちは、会費制のパーティにした。
服装も自由、祝儀不要。
プランも友人にしてもらい(もちろんお金を払った)、自分の大好きな音楽に彩られたパーティとなった。
祝儀に変わる新しいシステム
祝儀という不思議なシステムさえなければ、披露宴も悪くないと思う。
だから、祝儀ではなく、会費プラス投げ銭にすればよいと思う。
会費は、つまり飲食代。
投げ銭は、新郎新婦へのお祝い金。
投げ銭なので、誰がいくら入れたのかわからない。
新郎新婦のために出すお金は、出す方も貰う方も、このシステムの方が心地よいと思う。
常識的に3万、なんていうことにとらわれたお金よりも、ずっと心のこもったお金と感じることができるはずだ。