https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59790
私は今振り返ると、多少(かなり?)天の邪鬼の小学生でした。 だから、国語の授業で先生が 「ここでの主人公の気持ちを考えましょう」 と言ったら 「主人公に会ったこともないのにわかるわけないじゃんよ」 と思っていました。
ひねくれていますね。
しかし、実際国語の先生はなにかの折につけ 「読解の答えは一つじゃない」 みたいなことを言っていました。
つまり、わからないわけです。
時は流れ大学受験。 センター試験の現代文では、正解と不正解が明確に別れます。 この頃も同じ疑問、つまりそれが必ず正しいとどうして言えちゃうのか、という疑問を持っていました。
当時高校とは別に予備校に通っていた私は、予備校の現代文の講義も受けていました。 そのときに、衝撃を受けました。 なぜなら、予備校の現代文の先生は、主人公の気持ちを問う問題から答えを導くときに、 明確な根拠を示すからです。
センター試験は選択肢です。 なぜこの選択肢は間違っているか、なぜこの選択肢が正しいか、というのを、想像やイメージではなく、文章の中に書いてあることから導き出すのです。 つまり、とても論理的なんです。
例えば数学においては、1+1が2になるのに、「いや、他の捉え方もある」なんて言うと、ちょっとイタイ人になります。 私が受けた予備校での現代文講義は、そのくらい明確に答えを導き出せるものでした。
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初等教育における読解は、どこかで「著者の気持ちを想像する」ことに焦点が当たっているように感じます。 しかし、文章には論理的な構造があり、それを論理的に読み取る力も重要、いやむしろそちらの方が重要なのでは、と思います。 少なくとも、人の考え方の多様性を認めることとまるで同様に「読解の答えは一つじゃない」なんて言うのは、日本語の文章の論理性を否定しています。
もちろん、いくつにも解釈できるような文章もあり、そこに関してはいろいろと議論があって良いでしょう。 しかし、論理的に考えて明確になる主人公の心情もあるのだ、ということは教えるべきではないでしょうか。