オリジナリティーはとても大切だ。
しかし、そもそもオリジナリティーとはなんだろうか。
東京五輪のエンブレム問題は段々収まりつつあるようだが、問題だったのは、つまりパクリの可能性を指摘されたからだろう。逆に言えば、オリジナルではない、と指摘されたということだ。
音楽でもオリジナルという言葉がよく使われるし、パクリ疑惑も数年に一度は話題にあがる。
まず法律的なことを言うと、楽曲に関しては、コード進行やアレンジには著作権はない。これは当然といえば当然で、コード進行に著作権をつけたら、ほとんどのブルースはNGになるし、アレンジに著作権をつけたら、弾き語りはすべて著作権侵害になってしまう。
しかし、法律とは別で、要は問題にしたいのは、オリジナリティーがないのがどうか、ということではないだろうか。
JAZZにはこんな言葉があるのをご存知だろうか。
「JAZZに名演あって名曲なし」
この言葉は、演奏の良さがJAZZの良さの根幹であり、曲がいくらよくても演奏がだめだと全体としては評価が落ちるということを示している。
極端にいってしまえば、曲はパクってきても(法律的には問題があるものの)価値は下がらない、ということだ。
なぜだろうか。それは、JAZZという音楽の良さは、楽曲のオリジナリティーではなく、演奏のオリジナリティーに求められているからだ。
曲がいくらよくても、それでJAZZがよくなるほどあまくない。
そもそも、JAZZの演奏にはJAZZスタンダードが多用され、JAZZミュージシャンが「REAL BOOK」というスタンダード集を携帯している人も多い。これはつまり、既存の曲を演奏する気満々だということだし、それに対してなんの罪悪感もないのだ。
話がJAZZに寄ったが、他のものでも、こういう考えで良いのではないだろうか。
例えばある会社がオリジナル商品を開発するために海外視察をし、その時点で日本にない製品で、かつ日本にあったら便利だと思う製品をみつけ、日本で制作し販売する。
特許の法律的な問題さえクリアすれば、この行為に何の問題があるのだろうか。
その製品が日本にあったら良い!という考え自体がオリジナリティーにあふれている、という見方はできないだろうか。
オリジナルは、0から作らなくてはいけない、という考えは捨てたほうが良いし、そんなことは不可能だ。
また音楽の話で恐縮だが、どんなに0から楽曲を作ろうと考えても、使用する楽器は、誰かが使ってきた楽器だし、ボーカルと伴奏というスタイルだって当然これまでのパクリだ。12音階を使ってメロディーを作る、ということですら、既存のスタイルでしかない。
100%オリジナルなんて、ほぼ存在しない。
(生まれた頃から既存の音楽を聴く機会が一度もなく、かつその人が偶然音楽的な何かを始めたら、それは100%オリジナルと言って良いかもしれないが、そんな人にはあったことがない)
オリジナリティーを出そうと考えた場合、そのために一番重要なのは、逆説的になるが、あらゆるもののコピー(パクリ)と、その分析をすることだろう。あらゆるものをコピーし、自分でそれをアウトプットしたもの、それを人は「オリジナル」と呼んでいるに過ぎないと思う。