あいも変わらず、日本の試験という制度は、ある解答を答えさせるものが圧倒的に多い。
初等教育においては、何かを考える素材を知っていないと話にならないので、ある意味記憶型の試験や、そのための授業も必要だろう。
しかし、大学にまで行って、教科書に書いてあることを答えたらOK、というのは大きな問題だ。
試験は、解く方よりも作る方が間違いなく優秀
社会に出て働けばわかるが、生きていくのに正しい答えなんてないことがほとんどだ。
正しい答えなんてものがあるのなら、ずっとむかしに戦争も終わっている。
だとしたら、そんな混沌とした社会の中でもっとも重要視される能力は「考える力」だろう。
誰かが考えた問題を解くのではなく、答えがそもそもないことに挑むこと。
東大の試験で満点をとることができる人よりも、その東大の試験問題を作った人のほうが、能力が遥かに高いのだ。
未だに大学内の試験で、教科書持ち込み不可、電卓持ち込み不可といった状況も見られる。
しかし、教科書や電卓を持ち込んだら解けてしまう問題を、それらがない状況で解かせて点数を出すことにどれだけの効果があるのか甚だ疑問だ。
大学の試験は、一律「論文」でよいと思う。
出席率も不要。そんなものを管理する時間と労力は無駄だ。来ない学生は放っておけば良い。
あるテーマにおいて、各々の学生がどれだけ細かく分析し、考えを持ち、思考しているか、ということが最重要だ。
こんなことは、実は誰でもわかっているはずだ。
例えば、今日のトップニュースは東電関連だが
東電元会長ら3人を強制起訴(2016年2月29日(月)掲載) - Yahoo!ニュース
これが問題に出て解答があるとしたら、それはどんな解答なのだろう。
強制起訴は正しい or 強制起訴は間違っている
の2択だろうか。
そんなはずはない。答えが無いし、議論の余地が大いにあるから逆に難しい。
少子化だって、経済問題だって、単純な答えはない。
正解がないから議論し失敗し、そこから学ぶ
これからの時代を担っていく学生に求められるのは、こういった問題をどれだけ鋭く分析し、論理的な対策を立て、関係者(場合によっては世論)の合意を得て、どういったタイミングや手段で実行していくか、ということを考えることだ。
正解かどうかは、トライアンドエラーの後にしかわからない。
その後にすらわからないかもしれない。
学生の柔らかいアタマに固定概念を植え付けるような教育は、いい加減にやめたほうが良い。
この日本は、そんなことをしている暇なんてないくらい、問題が山積している。
世の中の問題に正解答があるとすれば「正解がない」という解答だけが正しいだろう。