間もなく、東日本大震災から5年の日を迎える。
自分は被災者ではない。
これだけ大きな震災だけに、学ぶべきことも本当に多くあるだろう。
その中で、自分は日本人の秩序に着想した。
なぜ日本では、このような非常事態でも秩序が保たれたのか。
なぜ日本では、パニックは最小限に抑えられたのか。
この議論は当時も、そして今でもよく耳にするし、記事でも見かける。
だから、もう少し掘り下げて考えてみる。
すると、島国、単一民族といった言葉が大抵の場合出てくる。
上記理由により、価値観がそろいやすく、共同体意識が高い、というロジックだ。
これは的を得ているし、実際そうだろう。
しかし、こういったことは、無意識下のものであって、表面的にこういったことを行動原理にしている人は少ないのではないだろうか。
では、表面的にはどういった行動原理なのか。
それは「空気を読んで」いる、と考える。
空気を読むことと、共同体意識は、ある部分は共通している。いやむしろほとんど共通しているのかもしれない。
しかし、全くイコールではないとも思う。
自分が思う最大の相違点は、それを「プラスのイメージ」でとらえているのか否か、というところだ。
空気を読むことは、別に悪いことではない。
しかし、空気を「読まなければならない」となると、空気が人に(結局は人が人に)強要していることになるので、問題が出てくる。
そして、空気を読む、読まないの議論は、いつもここが争点になる。
共同体意識は、基本的にプラスのイメージのはずだ(違うのかもしれないが、自分が使うこの言葉は、少なくともそういう意味だ)。
共同体の最小単位である家族を考えると、身内のために何か行動することがマイナス的な義務であることは少ないだろう。(あくまで「マイナス的な」という条件付き)
震災の時に、秩序を保ち続けられた日本人は素晴らしい。
本当にそう思う。
しかし、それが「空気を読んで」、もっと言えば「空気を読まなければならなかった」という雰囲気によるものであるとしたら、別の場面では、悪い空気を読むことにもなってしまう。
好戦ムードだった戦時中の日本のように。
共同体意識は、上述したように、その多くは「空気を読む」ことに近いかもしれない。
しかし、自分の考える共同体意識は、たとえ空気を壊すことになっても、その場でまったく逆の行動や言動をすることは、それが建設的なものであれば許容される、といったものだ。
つまり、状況によっては「共同体意識が強いためにあえて空気を読まない、壊す」といったことがあるという意味だ。
日本人の行動、言動が「空気を読む」ことではなく「全体を良くするためのゆずりあい」に起因するものであれば、素晴らしいの一言に尽きる。
しかし、行動、言動の根本要因は、その本人ですら(勿論自分でも)認識しにくいのも事実だ。
つまり、こういったことを考え続けること、しか方法がないと思う。