日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです。 趣味は読書とビリヤード。仕事は音楽関係。

社会的弱者との、これからの向き合い方を考える

 
凄惨な事件だ。
 
今回の舞台になったのが障害者施設。
 
先天的でも後天的でも、障害者がゼロになることを期待するのは現実的ではない。
つまり、何かしらのカタチで障害者とも向き合っていかなくてはいけないことだけは分かっている。
 
これは障害者にかぎらず、社会的弱者と呼ばれている人全体に対して、世の中がどう向きあうのか、という大きな問題だ。
 

これまでの向き合い方

 
障害者施設は何のためにあるのか。
それは、障害者が生きていく環境と、健常者が生きていく環境を揃えるのには無理があるので、住み分けをしようという発想から出来たものだ。
 
健常者が障害者の面倒を見るのには、知識面や精神面、そして環境面でも限界があるから、対障害者向けの教育を受けたプロに任せ、また障害者にとっても住みやすい環境の場所に住まわせたほうが、双方にとって良い、ということだ。
 
これは、事実の部分も多いだろう。
自分はその専門家ではないので詳しくはないからこそ、そのように想像してしまう。
 

今の向き合い方の副作用

 
しかし、障害者を健常者と故意に別の場所(世界)に追いやることには(当然ながら)副作用がある。
 
それは、障害者の存在感が、現実的でなくなることだ。
 
メディアや本、ネットの情報で、身の回りにいないタイプの人間を知り、「世の中にはこんな人もいる」、といったことを知ることもある。
しかし、それは、知らなかったことを知るだけで、至って自然なことだ。
 
障害者は違う。
 
少なくない障害者がこの世の中に存在していることは、ほとんどみんな知っている。
にも関わらず、その人達の存在を、障害者施設を作ってそこに入所させることにより、感じないように社会全体が仕向けているのだ。
 
情報としては存在している障害者も、リアルな存在は、感じる機会が少ないか、全くないというのが現況だ。
この捻れが、いずれ無関心や非現実感を醸成する。
 
障害者施設での、職員による入所者への虐待は多く報告されているが、それが明るみに出始めたのはここ数年だ。
それまでは、数字がない。
なぜなら、その統計自体をとっていないからだ。
 
統計自体をとっていないのは、社会としての関心があまりにも少ないからで、そこで犯罪行為が行われていても、社会が気付くきっかけすらなかったのだ。
 
こういった凄惨な事件で、その実態を知ることになるというのは、なんとも皮肉な話だ。
 
上述した通り、障害者は間違いなく存在しているし、今後どれだけ医療がすすんでもゼロになることはない。
 
それに対する社会の対策が、障害者を一つの場所に追いやって社会から見えにくくする、という方法を続けると、こういった事件が必ず再発する。
 

これからの向き合い方

 
確かに健常者と同じ環境で障害者が生活することには、支障があるだろう。
物理的な環境整備には多額の費用がかかるので、政府主導でもらう必要がある。
 
しかし、それよりも大きな障壁になっているのは、障害者を自分たちとは別の世界に住む特別な人達、とみなしてしまっている健常者の「意識」ではないだろうか。
 
その意識改革は、相当に長い時間を要する。
実際のところを吐露してしまえば、自分自身も障害者に対して、特別視していないかと問われれば、否定出来ない。
 
だからこそ、強く意識する必要がある。
障害者を「障がい者」と表記する、なんていうほとんど意味が無い変化でなく、少しずつ、でも着実な変化が求められている。
 
障がい者に対して、感情に流されて特別視する自分に抗い、同じ人間だ、と冷静にみる習慣を少しずつつけていかなければいけない。
 
そういった考え方が増え、その考えをもった大人の背中をみた子ども世代が社会に出る頃には、また大きな変化が起きているのではないだろうか。
 
もちろん、それは良い方向の変化であるに違いない。

 

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