数日前に、レコーディングの雰囲気を伝えることがいかに難しいか、という投稿をした。
これはレコーディングに限らず、あらゆることにおいても言える。
特に歴史上の出来事に関しては気をつけなければいけない。
近年に近ければ近いほど、それを伝える書物や映像が多く残っているが、逆に言えば昔のことは、その事実だけが伝えられるだけで、雰囲気は全然伝わってこないこともある。
例えば、1467年に足利後継ぎ争いで起きた応仁の乱。
これを機に戦国時代に突入していくのだが、小学校の歴史で習うのは、その年号とちょっとした背景だけだ。
しかし、この乱はなんと10年も続き、京都は壊滅状態になる。
10年も戦乱状態が続くことなど、リアルに考えたら想像を絶する。
壊滅状態と一言では言ってはいけないくらい、あらゆる略奪、虐殺が繰り返された。
と、こうやって文章で書いても、まったく伝わらない、ということは事実だろう。
これが理由で、本や報道では、真実は伝わらない、と現場至上主義を叫ぶ人もいる。
しかし、それはあまりにも極端すぎる。
作家の秀逸な表現
自分は本を読むのが好きだ。
本は作家が書く。作家は、文章表現のプロだ。
素人が伝えるのとは比較にならないほど豊かな表現方法をもっている。
例えば、売れっ子作家の村上春樹氏。
美味しいコロッケを表現した文章に、こういったものがある。
それを杉の箸でぎゅっと押さえつけるように切りとって口にはこぶと、ころもがかりっという音を立て、中のポテトと牛肉は「はふはふ」ととろけるように熱い。
この後にも説明は続くのだが、ここだけでもその美味しさが立体的に伝わってくる。
多分自分には10年経っても思いつかない表現だ。
フィクションだけでなく事実を伝えることにも、その表現方法は様々で、プロの手にかかると、限りなく本当の「雰囲気」が伝わってくるようだ。
人は歴史からしか学べない
人が生きていく上での教科書は過去にしかない。
壁にぶつかったら、歴史を振り返ってみろ。
本当にそのとおりだと思う。
その歴史のどこからどこまではが本当で、伝えられている事実の雰囲気も、どの程度伝わっているのかは計りようがない。
それでも、作家やジャーナリスト、学者は、それらをできるだけ細かく分析し、何らかのカタチとして残し、後世の為の知識蓄積のいち役を担っている。
我々は、それらから何かを学ぶことしかできない。
たとえそれが事実の数%しか伝えられていなくても、そこから何かを学ぶことしかできない。
だから、本を読むこと、歴史を知ることは大切なのだ。
それが事実をどの程度伝えているかとは関係なく、それを考える「きっかけ」にすることが大切なのだ。
活字、印刷、映像、データ、クラウド。
これらは、歴史を綴るツールとして大きく貢献してきた。
特にデータ、クラウドが当たり前となった現代は、それが劣化する可能性、失われる可能性を格段に下げた。
先のリオ五輪、各国アスリート選手の素晴らしい活躍も、まるでその場にいるような臨場感をもって後世に伝えられるはずだ。