小説家の村上春樹氏は、自分が好きな作家の1人だ。
とったらファンとして嬉しいものの、べつにとらなくもていいんじゃないか、と思う。
村上春樹氏といえば、売れっ子の宿命なのか、批判的な見方をされることも多い。
しかし、村上氏の場合、「世界的ポピュリズムを獲得しているのに」という前文がつく。
音楽の世界では、「日本でしか売れない」と揶揄されるアーティストがいる(もちろん、まったく悪いことではない)が、村上氏の場合はそうではない。
売れても売れなくても、クリエイトされるものに対して一定の批判があるのは当たり前だ。
それでも村上氏批判は「売れているから」「クリエイト作品だから」という理由だけでは、その批判量との釣り合いがとれていない、と感じる。
作家論を読んでみた
人の書いた作家論はあまり読まないが、上記に関しては不思議だと思っていたので、この本を読んでみた。
インテリジェンスの典型のような文体で、参考になったのは勿論だが、内容も興味深かった。
内田氏の多方面からの分析は、唸るものばかりだが、その中でも最も納得がいったものは、「人は物事に理由を探したがる」というもの。
例えば自分が好きな科学分野。
そこでの現象解明は、一重に日々実験と研究を重ねる科学者の方々によるものだ。
科学者たちのモチベーションを支えているものは何か。
それは、その現象の「理由」を探したがる欲望なのかもしれない。
たしかに、現象が解明されることによって、その研究が何かに流用できるといった「生産的行為」という側面も多分にあるが、それと同じくらい(場合によってはそれ以上)、「これどうなってるの?」という理由探究心がある。
村上氏の作品に出てくる「邪悪な何か」。
その概念を村上氏はいろいろな形で表現しているが、そういったものが出現する「理由」が語られることはまずない。
それは、どうしようもなくあるもので、理由を探求することにはほとんど意味がないように描かれている。
その逆転作用で、たしかに人は何かにつけて理由を探し続けていることに気付かされる。
上述した科学分野であっても、本来様々な現象は現象であって、それ以上でもそれ以下でないはずだが、それに対して理由を探さないということには、精神的には耐えられないからなのかもしれない。
村上氏作品中の「邪悪な何か」に限らず、作品自体の伝えたいメッセージも、「結局何を言いたいのか」という疑問を持つことは自分も多々あるし、それもしばしば批判の対象になる。
しかし、あえて言えば「伝えたい固定のメッセージはない」ということがメッセージなのかもしれない。
固定の、と書いたのは、つまり受け手(読者)によっていかようにでも受け取って良い、という捉え方もできる。
10人の読者がいたら、10人の解釈の仕方があって、そこに「本当は作者の伝えたいことはこれだ」といったクイズ的要素を考える必要は全くない、ということだ。
作品を通して、「理由なく起こることが世の中には多々あること、それでも人は理由を探したがるということ」に気づかせてくれる作品だ、というのが、内田氏の分析の一つだ。
しかし、これすらも村上氏が伝えたいこととは違うのかもしれない。
そうなのかもな、ということを想像させてくれる作品だから、少なくとも自分は村上作品が好きなのだ。