偉いという意味を、改めて考えてみることにした。
例えば、医師は偉いか。
医師は、人の病気や怪我を治すことによって、人の役に立っている。
ゆえに、偉い。
学校の先生は偉いか。
知識、教養を生徒に教え、生徒の知的向上に役立っている。
ゆえに、偉い。
ノンフィクション作家は偉いか。
勉強し、取材し、それを文章にまとめてアウトプットすることにより、知識、情報拡散に役立っている。
ゆえに、偉い。
偉いというからには理由が必要だ。
その理由の絶対条件は、誰かの役に立っているかどうかということだ。
一般的には、「誰か」の人数が多ければ多いほど、そして幅広い層であればあるほど偉さは増す。
逆に、ほとんどの人の役に立っていない人は、少なくともその時点では偉くない。
そんなことは当然なのだが、そこを理解していない人も結構多い。
そんな人が多いからか、「偉そうな人」という言葉には、マイナスのイメージを伴う。
例えば、上述した条件をクリアした偉い人を直接知らない人が、その人のことを遠目から見て「偉そうな人」という感想を述べることは至極当然で、それは非難でもなんでもない、はずだ。
それは、優しい人が優しそうだったり、悲しんでいる人が悲しそうだったりするのと同じことで、当然なのだ、本来ならば。
しかし、偉そうな人という言葉には、マイナスのイメージが伴う。
それは、上述した条件をクリアしていない人が、偉い人と同じような立ち振舞をしてしまうからではないだろうか。
つまり、偉そうな人は往々にして、偉くないのだ。
典型は学力レベルの高い学生。
有名大学の学生は、その時点ではちっとも偉くない。
いくら成績が良くても、だ。
なぜか。
それは、まだ学生で、学費を払って教えてもらっている立場なので、人の役に立っていないからだ。
将来的には、その頭脳を駆使して、人の役に立つのかもしれない。立たないのかもしれない。
しかし、その時点では少なくともまだ偉くない。
コンビニでアルバイトしているフリーターの方が偉いのだ。
そんな偉くない学生が偉そうな振舞をする理由は全く無い。
偉くもない人が偉そうにすれば、もちろん批判的な目で見られる。
学生にかぎらず、このように偉くもない人が勘違いして偉そうにすることが多いので、偉そうという言葉のイメージが悪くなってしまうのだ。
上記条件をクリアした、正真正銘の偉い人はどうか。
これも人によるが、意外と偉そうな態度を取らない人も多い。
決して多くない自分の知り合いのうち、地位もあり、名誉もあり、お金もある非の打ち所のない偉い人なのに、全く偉そうでない人は結構多い。
つまり、偉い人は偉そうでなく、偉くない人が偉そうというねじれ現象が起こっていることもある、ということになる。
自分の個人的な理想を言えば、たとえ自分が偉くなったとしても(なれないが)願わくば偉そうにしない人であり続けたい。
願わくば、というのは、実際に偉くなってしまうと、嫌でも周りがチヤホヤするので、次第に態度が横柄になってきてしまうのが人の弱さなのではないか、と感じるからだ。
音楽業界にいると、結構な確率でそういった人に出会う。
デビューしたての頃は態度も言葉も初々しかった人が、売れて有名になると、その貫禄を見せつけたいからなのか、とても偉そうな態度をとるようになり、周りへの感謝をいつしか忘れ、プライベートな友達がどんどん減っていく、といった人だ。
その渦中にいる人は、周りがそれをいくら警告しても、ほとんどの場合聞く耳を持たないし、持てない。
悲しいかな、そのくらい人は空気に弱いのだろう。
ちなみに、これも自分の周りの例だが、テレビや雑誌上で、そのブランディング上偉そうな物言いや態度になっている人は多くいるが、その裏ではしっかりとした礼儀をはらう人は多くいる。
もし全国的知名度を誇るような有名人になりたくて、画面の中や雑誌のインタビューで作られる有名人像をコピーしようと思っている人がいたら、少し立ち止まって考えたほうが良い。
それは、その人の本質ではないかもしれない。
本質でないことの方が多いかもしれない。
人は独りでは生きていけない。
だから、周りに対する感謝を持ち続けることは、どこまでも当然なのだ。