娘が幼稚園に通っており、イベントのたびにカメラマンが現れる。
撮影した写真は数週間後に番号を振って展示され、保護者は欲しい番号と枚数を書いた紙とその分のお金を子供に持たせる、という昔からのやり方が未だに続いている。
最近は、若者を中心に生写真離れが加速している印象を受けるが、それは至極当然だ。
スマホが十分に普及した現在ならば、撮影、閲覧、シェアがあっという間にできて、しかも無料となれば使わない手はない。
ただでさえ貧困が当たり前なのに、わざわざお金と面倒さをかけて生写真にする必要などない、という若者の意見は、あまりにも筋が通り過ぎている。
とまあ、これくらいは広く一般的なアーリーアダプター的意見だが、それでは卒業アルバムはどうであろうか。
これは予想するに、かなりの反発がありそうだ。
卒業アルバムまでデータ、クラウド化するなんて、風情もなにもあったもんじゃない。
便利さだけが大切なわけではない。
こういった反発が多々ありそうだ。
しかし、考えれば考えるほど卒業アルバムこそデータ化、クラウド化した方が良いと思う。
一番の利点は、保存の楽さ。
ほとんど劣化しないし、かさばらない。
クラウドであれば、いつでもどこでもアクセス可能。
さらに、各写真にタグ付けをすれば、人名での絞込も可能。
イベント毎の写真の中から、特定の人を探すのは、年月を経れば経るほど難しくなる。
しかし、タグの情報もほぼ永久的に保存されるから便利だ。
要素だけを考えれば、間違いなくデータ、クラウドにすべきだが、反発が予想されるのは、卒業という言葉やイベントが、風習や風情、伝統、慣習といった色彩を帯びているからではないだろうか。
昔から変わらずあるものであればあるほど、新たなテクノロジーを取り入れることに抵抗が多いと思われる。
しかし、いつも思うのだが、変わらず守りたいものがあるからこそ、変わらなくてはいけないことが多々あるのではないだろうか。
卒業アルバムは、2度と来ない学生生活の記録だ。
それを残したいという気持ちはいつまでたっても人の心にあってほしい。
(おそらくこんなことを考えるのはヒトだけなので、とても人間らしい願望だと言える)
その為には、できるだけ鮮明に長くそれらを保存する方法を選ぶ事が必要なのではないだろうか。
保管方法は所詮「方法」でしかない。
大切なのは、それを見て学生生活を思い出すことができる、ということだ。
そして、生の写真ならそれを感じ、データにはそれを感じないというのは、先入観でしかない。
そもそも、写真そのものがテクノロジーによって生み出されたものだ。
それまでは、絵しかなかった。
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もっとも大切なことは変わらないでいてほしい。
だからこそ、変わらなくてはいけないことが多くあると思う。
卒業アルバムがデータ化し、クラウド化するようになれば、この国もそういった変化ができる国に昇華したと言ってよいのではないだろうか。