娘の年齢が4歳になり、人としての会話を結構まともにできるようになってきた。
物心がつくのもだいたいこの位だろうから、今起こることの中のいくつかは大きくなっても覚えているのだろうな、なんてぼんやり考えてしまう。
知育ゲームなんていう呼び方をすると、まるで勉学教育に熱心な印象になってしまうが、そもそも自分自身も「考えること」が好きなので、そういった「遊び」を娘ともよくする。
そんな中、最近の娘のお気に入りはしりとり。
単語を凄まじい勢いで覚えていっている段階なので、それを口に留守するのが楽しいのだろう。
その中で娘からくる質問が非常に面白い。
しりとりで「ゾウ」の次は「う」から始まる単語。
しかし、ここに疑問を呈する娘。
「ゾウ」の次は「お」からじゃないの?
言われてみれば確かに、ゾウの発音を、文字に忠実に、「ぞ・う」と発音すると結構違和感がある。
音声で判断すると、ゾオ、の方が自然だ。
つまり、大人は、単語の最後に「う」がくる場合は「お」と発音したほうが自然だ、ということを意識せずに実践している。
また、しりとりゲームとは無関係だが、「クロクマ」と言う娘に対して、クロはいらない、クマだけで良い、と言うと、でもシロクマは?と返答。
これは自分が好きなラーメンズの小林賢太郎氏が使っていたネタの中にある。
最初に発見されたクマがもし白かったら、シロクマがクマで、クマがクロクマとよばれていただろう、というものだ。
そのネタを見たときは、なるほどさすが小林賢太郎、と思ったのだが、実は固定概念がない子供にとっては、至極当然のツッコミなのだ。
◆
物事を単純に、昔の方がよいとか、新しいものの方がよいとか考えるのは浅はかだ。
良さはほとんどの場合流動的で、いつでも振り返って、これで良いのか、ということを考え続けることが大切だ。
経験は大切だが、経験「だけ」が大切なわけではない。
新しいものを取り入れるのは大切だが、新しいもの「だけ」が大切なわけではない。
そういう思考を、ゼロベース思考と言ったり、そもそも論と言ったりする。
先入観にとらわれない考え方、というのも同じ類だ。
そして、これらの思考を困難にしているのは、「何に疑問を持つか、ということだけは自分で思いつくしかない」ということ。
それを邪魔するのが固定概念であり、先入観。
歳をとると、経験を重ねた分だけあらゆることに疑問を抱くことが少なくなったり、面倒になったりする。
逆に言えば、子どもは固定概念や先入観がないので、考え方自体が全て、まさしくゼロベース思考になる。
ゼロベース思考という意味では、どれだけ賢い大人よりも、その辺にいくらでもいる子ども達のほうが明らかに勝っているだろう。
www.famo-seca.club