いつの世も若者は批判されるものだし、新しいものは否定されがちです。
私が大好きなテクノロジー系は、性質上その影響がたくさんありますね。
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馴染みのバーのカウンターで、同じく常連だというある女性(私より若干年上)と仲良くなりました。
お酒も入って(私は飲みませんが)、饒舌に。
会社員として働くその女性は言いました。
「最近は便利になりすぎていると思う」
これまたふわっとした主張ですね。
こういうときは私は心のなかでしか反論しませんが、それをここに吐露します。
3点ほど。
1つ目。
便利になっている具体例を示してほしい。
世の中には数え切れないほどの物や技術が溢れています。
その中のどれを指して言っているのかがわかりません。
もしかしてすべて・・?
2つ目、これがメイン。
便利になり「すぎている」というのはどういった基準なのでしょうか。
便利になることは良いけど、なりすぎているかどうかの判断は主観でしかありません。
おそらく便利さを追求したがためにうまれた弊害があった場合に、便利になりすぎていると判断しているのでは、と思います。
しかし、私達がいま当然のように使っているものは、ほとんどすべて便利さを追求して生み出されてきたものですが、それらは弊害を生んでいないのでしょうか?
例えば車。
移動手段として便利さを追求した結果発明されたものです。
なくても生きていくことは可能です。(ヒト以外の動物は車なくても問題ないでしょう?)
その車による事故で年間3000人以上が死亡、5万人近くが大怪我をおっています。
これは便利さを追求した結果生まれた弊害であることは間違いありませんが、では車は便利すぎるものとして批判すべきでしょうか?
他にもあります。
私が幼少期、テレビはちょうどリモコン付きへ変わっていく過渡期でした。
あのとき、巷では
「座っているところからテレビまで、せいぜい数メートル、こんな距離を歩かなくなると、運動不足になる」
という批判があったのを覚えています。
この批判は筋は通っていますので、便利さを追求する人はリモコン付きテレビを使わない方がよいですけど、そんな人いますか?
インターネットやスマホなど、比較的あたらしい技術に関しては、便利すぎると否定しながら、自分が享受している便利さへの言及がないのは、典型的ダブルスタンダードです。
便利さを追求して、それから弊害が生まれているにも関わらず、否定するのもとしないものがあるのは、それらが生まれた頃から浸透しているかどうか、だけだと思います。
私が生まれた頃にはすでに車がありましたが、おそらく車が普及していった時期では、たくさんの人が轢かれて死者が増える、といった批判があったのではないでしょうか?
でも、そんな批判をする人は少なくとも私世代ではいません。
同様のことが今の若い世代には起こるのです。
生まれた頃からネットやスマホがあるので、「ネットやスマホで便利になりすぎだ」と言われても、ピンと来ないのです。
3つ目。
便利すぎると言っても、結局世の中は便利な方にしか進まないのは歴史が証明しています。
運動不足を懸念されたテレビのリモコンも、年間で多くの死傷者を出している車も、弊害は明らかですが結局なくなりません。
だから私達は便利さを追求するするのやめようとするのではなく、便利さ追求はとまらない上で、何ができるのかを考えるべきです。
車はなくならないけど、安全性を高めることはできます。
エアバッグなどの技術、厳罰化といった法整備で死傷者は減少傾向です。
運動不足を解消するための膨大な情報を無料で好きなだけ得ることができます。
便利さって、そういうことだと思います。